安物買いの国失い
日本の社会は不思議だと思う。
消費者は安いものを一生懸命買いあさり
売り手は一生懸命売ろうと自分だけでなく協力企業の身を削る。
(まあ、企業についてはそれだけ目先の売上にアップアップしていたり、これを機に
一気にシェアを拡大しよう、という意図があったりとさまざまだと思うが。)
大手流通もこの12月はかなりのセール攻勢に出て、
新聞で「デフレスパイラルを招きかねない」とまで心配されている。
インターネット上では先日、大手流通の販売サイトで価格設定を入力し間違え
非常に安くなってしまった商品に、ミスにつけ込めとばかりに大量の
注文が殺到した。結局、その商品の販売はキャンセルとなったが、
情けないことにその会社は注文した人に一人当たり2000円の郵便為替を
送るのだという。なんとも、やるせない話だ。
また、先日テレビでは年収150万円で生活している一家のことを特集していた。
夫婦はともに夫婦は30代~40代。
夫は小説家、妻はイラストレーターだそうで、まだ3~4歳の娘がいた。
年収は150万円、家具はみな拾ってきたもの、服は古着で銀杏など拾える食材は買わない、パン屋さんでパンの耳を買い込んで食べている。もう10年もこんな生活だそうだ。
ニュースでは、こんな生活をする家族なのに、驚きのことに!みたいなフリで、年に一度は必ず海外旅行に行っている。と、パリ旅行の写真を見せながら紹介していた。
ニュースキャスターもニコニコ顔で、「笑顔が輝いていましたね」などと言っている。
なお、番組では、特段彼らが病気などの労働への困難を抱えているなどとは
報道をしていなかった。
それらの人のライフスタイルだからと言って好意的に報道されるのが、いろいろな意味で
この時代なんだな、と私はマスコミの姿勢も含めて非常に疑問に思った。
人がそれぞれの幸せを感じて生活できることは結構なことだ。
しかし、生産できる人が適度に生産し税収が維持できなければ社会は維持できない。
それをしない限りこの社会のどこかで誰かが苦しむことになる。
この社会の中で暮らしている以上、生活の持続と自由を得るには社会に対する
義務を果たさないといけない。
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なんで、こうも安いものばかりを求め、企業もそれを推し進める意識社会なのだろう。
ボディーブローのように効いている今の状況は、
2000年前後の企業のリストラ論とよく似ている。
経費を切り詰められるところまで切り詰めることが至上命題。
そんなのがトレンドとなり、どこもかしこもリストラをうたった。
そればかりに終始した結果どうなった?
経費の切りつめにも限界があり、行き詰った会社は何もできずにつぶれるだけ。
企業にとって、経費の切り詰めには限度があり、それで一時は余剰金が
増えたように思えても、
結局、適正な利益をもたらす売上と、労働意欲、それをもたらす前向きな変革・価値創出
を生み出すことができなくては持続しない。
リストラという言葉は本来の意味を離れて、そんな当たり前のことに目をそらすための
一種の麻薬的言葉だったように思う。
いわば、今は社会のリストラ、一般家庭の生活のリストラの時期だ。
ここでわれわれが経費の節減とばかりに切り詰めることばかりに浮かれていても、
近い将来限界が来る。
結局それが産業自体を衰退させ、自分たちの給料や売上を貶めていくことになり、
社会が衰退していく。 いま、そのような状況の中でいったいどのような新しい価値や
変革が起きているというのだろう?
90年代、厳しい経済状況に直面して、消費者はいっせいに財布の紐を締めた。
でも、2000年代になると、それでも、「自分が価値を感じるモノ」への出費は
しっかりとでてくるようになり、小さいお店でもそこにビジネスチャンスがあった。
しかし、最近実感するのは、再び消費者が何でもかんでも財布の紐を締め、
安い価格であり、それなりに良いものであることを消費の最優先にしている
ということだ。
小さいお店はもはや、それに対応しうるだけの力が無いのも現状ではないか。
日本の社会に今、本当に必要なのは、
店に「もっと安くしろ」
協力企業に「もっとコストを切り詰めろ」
と要求することではない。
適正な価格でものを買えて、文化的生活をしうるだけの労働対価、賃金、
それはまた、適度な労働と余暇が取得可能な状況というものに対して
求めていく、そして支払う、働く、その意識改革ということではないのだろうか。
そのために必要な変革と創造を成し遂げていくほかに、特にわれわれ若い世代に
とっては豊かな将来もないように思う。