人を評価、採点することは難しい。
それが相手が社会人、
本人たちは目の前のことに懸命に取り組んでいて、
基準は絶対評価、
なおかつ、
それによってその人たちの人生を左右するならなおさらである。
その人たちの背後にいる家族や、今後の生活なんかだって脳裏に浮かんでくる。
しかし、その評価をすることには理由がある。
その理由をないがしろにすることは、その研修生本人だけでなく、
すべてを台無しにすることだ。
連日深夜に苦悩しながら、期限までに評価をする。
そんなことは周囲のほとんどは知ったことではない。
評価すること。
自分自身が、その意味をしっかりと理解し、あるべき姿をつかみ、
どう覚悟をして決断をしていくかなのだ。
そして、そのために、どのように材料を集め、人の話を聞き、
アレンジして判断の材料としていくかなのだ。
診断士とは、仕事とは、大きく言えば、人生だって、そういうことだ。
結局、最後は自分自身であって、誰も救ってはくれない。
そして僕は、ずっとそのことを研修生に伝えてきた。
昨年のある研修のとき。
僕は、家に帰れば家族を背負っている研修生の幾人かに厳しい評価をした。
ギリギリまで悩み、色々考えた末の結果だった。
でも、それだけでは彼らも納得できず、そうであれば自分も救われぬと思い、
時間をかけて一人ひとりにメッセージを書いた。A4で2枚~4枚程度だろうか。
その人のいいところ、改善を図るべきところ。
評価とメッセージが彼らの手元に渡ったその夜か、2日位してからだった。
彼らからメールが来た。
「有難うございます、これから、挽回できるようがんばり、必ず卒業します」
僕が低く評価をつけた研修生ほど、早い時期にメールをくれた。
なんて、優しい人たちだろう。
その点を評価できる評価軸がない、その基準をうらんだ。
それから、何ヶ月かして、その学校で彼等にばったり出会った。
ずっと気になっていた研修生たちだ。落第せずに、残っていたのだ。
彼らは僕を見ると、満面の笑顔を浮かべた。
そこには、
「やったでしょう?」
そんな自信も見て取れた。
僕は、泣きたいほどうれしかった。
「よくぞ、ここまで残ってくれましたね!心配してましたよ」
僕が言ったら、彼の隣にいた見ず知らずの研修生が驚いて言った。
「え、○○さん(その研修生)、心配されるような人だったの?」
彼は、そして、それ以外に僕が評価を低くつけた班員は、
目を見張るべき意識改革と行動を成し遂げ、ついには「問題児」から
「一目置かれる人」になったのだ。
人を評価することは苦しい。
だから、あたりさわりのない評価をつけるほうがよっぽど楽だ。
それに、自分だって嫌われないで済むのだから。
何度も、くじけそうになる。
記憶の隅々を掘り起こしながら、自分と研修生に問い続ける。
しかし、自分には大義がある。
目の前にいる人、そして社会を裏切るわけには行かないのだ。
物事の本質を考えたとき、どのことが一番その研修生のために
してやれることなのか。それを通して社会に貢献できるのか。
これを見失ってはいけない。
つい先日、手元にお茶の葉と、一通の葉書が届いた。
別々の差出人だったが、それは自分が担当した研修生で、
卒業から1ヶ月、
お茶は若手の情熱的な研修生、
葉書をくれたほうはまさしく、厳しい評価をつけた研修生だった。
何もないところから手探りで作り上げていく厳しい研修期間を体験した
二人からのそれぞれの贈り物が、とてもうれしかった。
僕は、彼らの記憶に残ることができたのだろうか…。
シアトル・マリナーズのイチローはかつてTVのドキュメンタリーで言った。
「苦しみの先にこそ、真の楽しみがある」
僕はこの言葉に救われる。
だから、僕も、この「苦しみ」から逃れることはしない。
研修生と、社会の豊かさを願いつつ。