私が事務所を構えている住宅街を歩いていたある日の午後。
ふと気づくと、歩道のコンクリートのわずかな隙間から、一輪の花が
咲いていた。小さな花だった。
たった一輪、風に揺られる花を見つめて(怪しいおじさんだ)
ふとある詩を思い出した。
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「花語らず」 禅心禅話 柴山 全慶
花は黙って咲き 黙って散って行く
そうして再び枝には帰らない
けれども その一時一処に
この世のすべてを託している
一輪の花の声であり
一枝の花の真である
永遠にほろびぬ生命のよろこびが
悔いなくそこに輝いている
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忘れもしない、中学校三年生のときの修学旅行。
京都・南禅寺を訪れた僕は、その雰囲気や、琵琶湖から水を
運ぶ石造りの疎水橋の美しさに心を打たれたものだった。
そして、三門に入場するチケットには、「花語らず」が
書かれていた。
思春期真っ盛りの僕には、すごく心を打つ衝撃的な言葉だった。
”一時一処にこの世のすべてを託している…”
小さな一輪の花が、
そこに咲いているということは、どういうことなのか?
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その後、大学でアイヌのことを学んだときの金田一京助の言葉も
この「花語らず」に通じるものがある気がする。
「ものも云はず なにも語らず 石はただ全身を持って己を語る」
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虚飾や、目先の快楽がもてはやされる現代。
しかし、どんなきらびやかな取り繕いも、
小さく可憐な花が、そこに咲いている、そのエネルギー。
川の流れに角を取られた石が、いま、そこに存在し、表現しているすべて。
これらの表現する世界と使命、それに気づく価値、
そこから得られる共感には
到底かなうものではない。
(川崎の等覚院にて)
何かにすべてをささげること。
生命の喜び。悔い無き輝き。
ただし、そのような物事の見方、切り口というのは、生まれつき
備わっているものではない。
だからこそ、「教育」とともに「経験する」ことが重要なのだろう。
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僕は人材育成の仕事も携わっているが、小手先ではなく、
真の喜びを見つける、表現できる、共有できるような取り組みをしていきたい。
自分の生きる生命の喜び、悔い無き輝きを追い求めていこう。