自分は1996年からインターネットを使用し始め、98年にはすでにホームページを持っていた。
これだけ長くインターネットをやっていれば、いろいろなことがあるもんだ。
いろいろな人と出会い、そして、去っていったり、去られたり。
インターネット上で、もう何年も友人のように会話をするけど、
実際はまだあったことがない人もいる。でも、親しみを感じている。
毎年恒例で行っているロングツーリング仲間も、インターネット上での
出会いがきっかけだ。
自分の家内も、自分のホームページを見てメールをくれた一人だ。
しかし、反面、たまにいやな思いもする。
匿名をいいことに、嫌がらせをするやからがいる。
まあ、基本的に相手にしても、何の価値もないと思うので気にしないように
しているのだけど。
とはいえ、インターネット普及期から、現在を比べると、明らかに
粗暴な人間が増えた気がする。
誇大自己(そんな能力や資質がないのに自分がすごい、優秀だと思うこと)
を振りかざし、相手を見下した態度をとることで、自分の存在価値を
感じようとする。でも、自分の本名なんかはこれっぽっちも出さない。
これは一種のコミュニケーション応力の欠如だ。
いやな思いをするたびに、なんだか怒りも感じず、
むしろ不憫さを感じてしまうのである。
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インターネットはすばらしいツールだ。
しかし、使い方を間違えれば、すばらしいツールを規制するルールが
作られるようになる。
それが続けば、そのツールの価値が失われていき、
やがては自分たちの生活に享受できたはずの豊かさも制限されていく。
子孫の社会に危機をもたらす。
自由という権利は無償ではない。
義務と道徳を果たしてこそ、守り続けられるものである。
豊かさを守り続けられるかどうかは、結局のところ、
個人個人の志と、コミュニケーションの質にあると思う今日この頃である。