近年、特に市町村合併が盛んになったころによく見られた風潮だが、
地名をそれまでの漢字から、ひらがなに変える市町村が後を絶たない。
自分にとっては、ひらがなにすることは一種の、地域のアイデンティティーの
放棄に等しいのであろうと考えている。
地名の成立については詳しく知らないが、
それぞれの歴史や自然、文化や民族に起因するものが多いと考える。
また、漢字は読みだけではなく、その文字自体に意味を持つものであり、
すなわち、地名を音(おと)で読んだときの表面的な受け取り方だけではない
含意があるのではないか。
もちろん、たとえばアイヌ起源の地名など、音への当て字である場合があるにせよ、
そのような願意を含むものをひらがなにしたとたん、その含意や、
そこから派生する地域性というものへの想像は失われる。
たとえば、青森の奥入瀬は、深い森林の中をせせらぎが流れる情感
豊かな奥入瀬渓流が有名な観光地であるが、近隣の2町が合併して
「おいらせ町」が誕生した。
「おいらせ町」を流れる奥入瀬川自体は渓流ではないので、いわゆる
奥入瀬のイメージとはちょっと違うといえるのだが、いずれにせよ
なぜ地名が
「奥入瀬町」ではいけなかったのだろう?
「奥入瀬」と「おいらせ」
私には、まったくもって別物に受け取れる。
ましてや、奥入瀬のことをまったく知らない人にとってはどうだろう。
おいらせ、ではなく、奥入瀬、だったら想像ができることもたくさんある。
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また、市町村合併などによる地名の変更は、そこにあるもの
をまったく放棄してしまうこともある。
一時物議をかもし、結局実現しなかった例としては
「南セントレア市」
などというものもあった。
「忍者市」「ゴジラ市」
にいたっては、まじめに考えた関係者には悪いが、
絶句どころか、絶望を感じた。
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元は漢字のひらがな地名を見るたびに私は
軽々しい印象を受け、がっかりする。
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このような「ひらがな」はなぜ使われるのか?
はっきりとした納得いく定義を、私は見たことがない。
「読み方が難しいから」
「あまり使われない漢字であるから」
「ソフトな感じになるから」
「合併時に合併する地域間で不平が出ないため」
などがあるのだろうと思う。
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しかし、読み方が難しかろうと、あまり使われていなかろうと、
イメージが堅かろうと、その地名には、その地名が示していた意味、
培われて来たものがあるのではないだろうか?
日本全国によく見られる
「○○谷戸」だって「○○新田」、「地獄谷」だって、
その地域性をあらわしている使命がある。
それを単に、上記の理由で放棄してよいのだろうか?
漢字が難しかろうと、それは調べたり学習すればよいだけだ。
「何でこの字を使うのだろう?」という疑問がわけば、そこから
新たな学習や、地域への理解が深まる。そこからその地域における
精神性の礎ができるかもしれない。
私だって、幼いころは東京都府中市で育ったが、
「府中」というのは、かつてここに「国府」があった、国の中心だった、
ということに自慢の種を見出していたし、地域性を感じていた。
安易なひらがな化は、子供たちへの文化の継承や新たな学習機会、
精神性の醸成機会、そして、その地域の”地域案内”機能を奪う。
安易な地名のひらがな化は決して望ましいことではない。
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自分は、安易なひらがな化に関しては、「言葉(国語)」に関する
重み付けの不十分さが起因していると考える。
さらに言えば、「言葉(国語)」の考え方は、文化だけでなく共同性に関する
倫理や道徳といったものにも関係するものだと考えている。
それは、漢字や言葉が、さまざまな歴史背景や思想のなかで
時間をかけて完成されていったものだからだ。
文学や読み物を読むときだって、使われている漢字がなぜ、そこで
使われているのか、表面的ではない含意やそこに隠れる事情を
そこから読み取るものだ。その「漢字」から含意や事情を読み取る力
があるからこそ、日本人は日本人の文化や思想性を持ち、表面的な
現象だけではないことを共通に理解しあってきた。
それが難しくなったというなら、それは地名や漢字のせいではなく、
教育の問題であって、地名をひらがなにしたところでなにも解決にならない。
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長い間培われてきた、あるいはその地域の誇りであった地名を
もっと大切にしたいものだと思う。
それは、いまの大人たちの事情だけではなく、子供たちに受け継いでいくもの、
子供たちに残していかなくてはならないもの、そして、国のために守る地域の
宝だからと考える今日この頃である。