中小企業大学校の診断士養成課程の講師などをしていると、研修に来ている
金融機関のかたとの知り合いが増える。
みな熱心で、診断士となってからの会社だけではない地域貢献などを
真剣に考えている。地方銀行、信金の方が多い。
中小零細企業にとって、熱心なサポーターとなってくれる金融機関との
付き合いはとても心強いだろう。
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自分が小学生の頃。まだ、バブル前だった。
一人で小さな商売をやっていた自分の父親に連れられて、
父の会社と取引があった当時D銀行という都市銀行の支店に
行くと、必ずフロアにいた職員がもみ手をするようにニコニコして
父のところへやってきたものだ。
「ああ、○○さん(会社名)、こんにちは、今日はどういった御用ですか?」
それはまるで、「お金をいつでも借りてください、何なら今でも貸しますよ」
といったような雰囲気で、幼かった自分が
「ウチの父親は偉い人なんだね~」と思うような媚ぶりだった。
それから10年。バブルも崩壊し、我が家の商売の一日あたり売上高も
バブルの時期の数分の一しかなくなった。
ある日、自分が中学校から帰って自宅にいた時に留守電に吹き込まれた
D銀行からのメッセージが忘れられない。
それはある平日の、13時過ぎごろのメッセージだったろうか。
それは低い、だるそうにわざとらしくゆっくり話す男性の声だった。
「D銀行○○支店の××です。(ふぅ~←聞こえよがしなため息)」
「本日ご予定の□□の入金が確認できません。至急連絡をください(ガチャッ!!)」
こびていたD銀行の職員のイメージが残っていた自分にとっては、
おそらく父が手続き等で不備があり本来しておかないといけないことを
まだしていなかったのかな、と思ったが、(一方で、まだ15時まで時間あるのに、
とも思った)いずれにせよこの高慢で威圧的な電話が理解できなかった。
それからさらに数年。
商売はどん底。それでも設備などの更新も必要で、父の会社は借入を
必要とした。
そして、D銀行は、あっさりと「貸せません」と父を突っぱねた。
これは、当時の父の会社にとっては死刑宣告と同じだった。
そして、当時は余裕のなかった家庭にとっても、重大な出来事だった。
結局、父は国民生活金融公庫に相談し、
助言を受けながらわずか400万円の
融資を受けられた。
1990年代後半のことである。
そして、その2、3年後には父の会社は経営努力によって売上はみるみる
回復していった。
もちろん、借入金の返済は一度も遅らせることはなかった。
まだ、世の中が不況のどん底、といわれていた頃だ。
あのときの、D銀行の対応がいまだに忘れられない。
彼らはその後十分に売上回復する素地があった会社への
400万円の融資をせず、かといって経営へのアドバイスなどこれっぽっちもせず、
ただ単に、簡単な死刑宣告をしただけだ。
笑い話なのは、その銀行はその後、M銀行という名になり、
兆円規模の公的資金支援を受けているのだ。
公的支援の財源には、きっと父の払った税金も含まれているだろうに。
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中小零細は、その内容が少しでも悪くなれば、大きな存在からは簡単に
死刑宣告される。
だからこそ、つきあう金融機関は(公的機関も含めて)しっかりと吟味せねば
ならない。単にお金を預けたり、借りられれば良いだけの関係では、
そういう付き合いを求めてくるような相手であれば、
経営者にとってはいつでも手を引かれるというリスクを背負っているも同然ともいえる。
しっかりと、自分の会社について知ろうとしてくれ、時に入り込んで助言をしてくれる
金融機関もずいぶん増えている。そのような金融機関と対話をしながら、
いざというときのための関係を築いておくのも、経営にとってのリスク回避の
ために日ごろからできることだろう。