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取り組みの過程にはVIKが大切

地域活性化、商店街の仕事をしていてよく感じることがある。

それは、目先・小手先のことをしようとしていることが多い、ということだ。

「とりあえず人をあつめたいからイベントをしたい」

「うまく売れるすべを教えてほしい」

「真似できる事例はないか」

こんな声はよくある。
でも結局は、何をどうするか決められず今までとおんなじことをしてしまう。

しかも、残念ながら消費者や地域住民は、そういう取組の姿勢に
対して大した期待もしなくなっているから、望むような成果が得られない。

これでは取り組んでいる当事者たちにとっては苦痛でしかない。
楽しいものなどには到底ならない。

「何をどうするか分からずに、結局同じことを繰り返してしまう理由」は簡単だ。

 

 

考える過程・取り組みの過程に「VIK」がないからだ。

つまり

・Vision(v)目指すべき将来像

・何事に対しても「意味」(I)を考え、意味を与える

・根拠(K)を拾い集めて考える

という作業だ。

+++

■Vの視点を持つ
先日、日本テレビの番組「イッテQ」で、20歳そこそこの芸人のレポーターが
アフリカのキリマンジャロに登頂する番組をやっていた。
もちろん、富士山よりはるかに高いキリマンジャロの登頂は至難を極めた。

その中で、そのレポーターが言っていた。

「私は芸人としての経歴もほとんどなく、何をやっていいか、やっていけるか
わからない。でも、こうやって頂上を目指すという目標が見えていることに
対しては、私は一生懸命やることができるんです」

目の前にある目標を理解したとき、彼女は自分が何をすべきかをしっかり
見据え取り組むことができたのだと言える。
一方で、彼女はきっと、芸人として、芸能人としての具体的な目標を
持っていないのだろうと思う。

まちづくりや商店街の活性化も同じだ。

そのまちや商店街が目指すべき姿、目標を明らかに持てれば、
おのずとやらなければならないこと、取り組まないといけない方向性
というものは見えてくる。

それがなければ、いつまでたっても「どこに」「どのように」向っていいかは
わからずに、同じことを繰り返すことになる。

+++

■Iの視点を持つ
また、物事は全て、 意味を持っている。

・その町や商店街が、将来的にこういう姿になる意味。

・そのために、取り組むソフト事業・ハード事業の意味。

・ソフト事業の中のイベントで、このようなターゲットで、
このようなイベントを行う意味。

・このイベントでの出し物を、こういう種類の出し物にする意味。
・このイベントでの売り出しを、このような売り出しにする意味。
・このイベントでの演出を、このような雰囲気にする意味。

このように「意味」はある目標に向かって段階的に連鎖する。
そして、ここでいう「意味」とは、与えられる受動的なものではなく、
自分たちで積極的に位置付けて「意味づける」ものである。

「意味」が目標に向かうその連鎖につながっていないこと、
つながらない行動があるとき、それを人は

「意味がない」

という。
「意味がない」ということはつまり、

「体系的な成果・仕組みづくりは望めない」

ということでもあるのだ。

+++

■Kの視点を持つ
それでは、「意味」を持たせるためには何が必要か?

各当事者が主観的に、

「ああにちがいない」
「こうやりたい」
「そうすべきだ」

などと考えることが「意味を持たせる」ということなのだろうか。
それは違う。
「意味」をいくら単なる主観や自己主張だけの理屈上においても、
それは社会にとって何の役にも立たない。

つまり、「意味」は社会性を必要とする。

その社会性を図るには、物事を判断するための「根拠」が必要だ。

・その町や商店街が、将来的にこういう姿になると意味を持つという「根拠」

・そのために、取り組むソフト事業・ハード事業が意味を持つという「根拠」

・ソフト事業の中のイベントで、このようなターゲットで、
このようなイベントを行うことに意味があるという「根拠」

・このイベントでの出し物を、こういう種類の出し物にする
ことが意味を持つことの「根拠」。
・このイベントでの売り出しを、このような売り出しにする
ことが意味を持つことの「根拠」。
・このイベントでの演出を、このような雰囲気にすることが
意味を持つことの「根拠」。

このように、「意味」とは違い「根拠」は目標に対して連鎖するものではなく、
「意味」を形作るために必要なそれぞれの”素材”だといえる。
(その素材とは、 よく言われるのは「外部環境」「内部環境」という
環境の分析と、当事者たちの将来像への思いといった視点からもたらされる)
言い方を変えると、「意味」は「根拠」なしでは形造られず、「将来像」は
「意味」を積み重ねなくては達成しえない、ということだ。

+++

いささか理屈っぽい話になってはしまったが、まちの活性化や
商店街の活性化を図るとき、

・目先・小手先の積み重ねでは将来は描けない、

そのためには、

・ちゃんと手間暇をかけて当事者たちが考え行動すること、

・将来に夢を描こう、ビジョンを持とう、という前向きな意思を持つこと

が重要であること、これがむしろ、自分たちにも道を照らしてくれる
ことになる、ということを言いたかったのです。

 

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2009年06月30日 13:26に投稿されたエントリーのページです。

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