++ 画像・文章の無断転用、転載、加工等はお断りしております++
☆また、商品販売や販売促進を目的としたサイトが当ブログの記事を無断でリンクし、
記事内の情報をそれら目的に用いることを禁じます。☆

« 取り組みの過程にはVIKが大切 | メイン | パッチワークキルト専門店 ドリーム・テテ »

満ちた月

今朝、携帯電話にかかってきた電話でとても悲しい知らせを受け取った。

まさか、予想だにしない電話だった。

自分が尊敬していて、しかも、かわいがってくれた一級建築士で、まちづくりが
すきで、こだわりを持つ男で、人と同じことが嫌いであったK先生が10日ほど前に、
お亡くなりになられていた、ということだった。

死後10日は、周囲に伏せて置くように。
粋でダサいことぎらいで、そして優しかったK先生らしいや。

かつて自由が丘の街づくりに取り組まれていたK先生は、
いまでは栃木県のある街に入り込んでタウンマネージャーを
していた。

「なかなかうまく進まないんだけどね、これは俺の戦いなんだ」

というようなことを、酒の席で熱弁されていた。
良いと思ったものについては衝突を恐れない人だった。

「フフン、俺は負けねえよ」いつもそんな感じだった。

 

僕は、中小企業大学校の研修生だったころにK先生に出会った。
でも、ここ2,3年前まではK先生といえば自由が丘を始め、
まちづくりで実績を残し、全国的に頼られる有名な先生だったから、
いろいろと学びたいことはたくさんあったけど、自分がそうそう
近づける人ではないと思っていた。

K先生はウィルコムのスマートフォンを使っていて、
事務所にはいろいろなIT機材を買い込んで自分で調べながら
システムの構築などをしていた。
僕も、ウィルコムのスマートフォンを使っていたし、
自宅にはちょっとした環境を整えているから、まちづくりのほか、
あるとき、そういう面で話が弾んだ機会があった。

「ウィルコムはナカナカいないから、大海君は貴重なウィル友だ」

と言って、気さくに電話番号を教えてくれたっけ。
いただいた年賀状に、「ウィル友 Kより」
なんて書いてあるのを見たときはうれしかった。

僕が

「最近、こういう機材を導入してシステム組みましたよ」

と自慢メールをすると、

「自分はすでにこんな機材でこういうことをしている」

などと対抗してくる。たいていは、僕よりは高い機材を
もちいていて、一歩進んでいた。

「いま、宮崎の空港にいます。”さつま大海”を飲んで飛行機を
まっていますが、大海君(かれは僕を”たいかいくん”とよんでいた)
を思い出しました」

なんてメールをくれたり、

「内幸町に大海酒造の焼酎をそろえているところがあるから、
連れて行ってあげる」

なんていわれて、二人で閉店まで騒ぎながら飲んで、
ご馳走になったものだ。

去年、山形県で仕事をご一緒したときは、帰りの新幹線で
酒宴をしながら、彼の鶴岡でもう20年も前のエピソードや、
携わってきたまちづくりのこれまでのエピソードを
とまらないマシンガントークでずっと聞かされたっけ。

正直、ちょっと疲れたけど!

奈良で仕事をしたときには、会議の場での僕の発言を
冗談っぽくいさめながら、フォローしてくれた。
そのあとは、

「大海君、京都で一杯引っ掛けていこう。いい店があるんだ」

なんて誘ってくれた。結局、お目当ての店は変わってしまったみたいで
見つからなかったけど、焼き鳥屋に入って結構飲んだ。

大阪の難波。すでにしこたま飲んで午前0時過ぎだったが、
「大海君、僕が出すからもう一軒だけ行こうよ」

入ったのは小さい小料理屋。
地元の男性が二人、すっかり出来上がっていた。
そのうちの一人の男性が絡んできたが、
K先生は場を和ますために昔の歌を大声で歌い始めた。
酔っ払いのその男性も、たまらず手拍子をしたものだ。

そのあと、その男性が軍歌を歌いだした。

「僕は戦争は嫌いだな」

K先生はそう言っていた。

+++

悔やまれることがある。

ちょうどひと月まえのこと。
僕のウィルコムに、K先生からの空メールが入っていた。

「空メールなんて、そそっかしいな」

僕は、単なる手違いだろうと、返信をしなかった。

でも、K先生との接点は、それが最後だった。

何で返信しなかったんだろう?
何で返信しなかったんだろう?

そのときは想像もしなかったことが、起こってしまった今、
悔やんでも悔やみきれないチャンスを僕は逃していた。

あの時、K先生は本当に、操作を手違いしただけだったのか?
もしかしたら、なにか用件があったのでは…

+++

「またいずれメールできるだろう」なんて思って、じつは
最後にK先生と触れ合えるチャンスを逃していた。

ジャニス・ジョプリンの歌にある
GET IT WHILE YOU CAN

直訳すれば、「できるときに手に入れなさい」をふと思い出す。
(邦題は「愛は生きているうちに」)

K先生と、ジャニス・ジョプリンのころの60年代、70年代のロック、
ドアーズなんかで話し合ったっけ。

「僕は、かつてドアーズについて雑誌に記事を書いたんだよ」

京都からの帰りの新幹線でそうはなしてくれ、
翌日、その記事をメールで送ってきてくれた。
ジム・モリソンが斃れたパリの街で、その墓前を訪れ、
自分が惹かれるものを純粋に追いかけ、感性や哲学のアンテナを
伸ばしてそれをほかの人以上に出来事を受け止めていた先生の姿が
そこには書かれていた。

+++

この訃報を、お師匠のTK先生に電話した。
先生は驚かれていた。そして、

「これからは、伊藤さんたちがそのあとをついでしょって立って
いかないといけない時期なんだよ」

と言われた。

僕は情けない男だ。
K先生ができていたようなことや、できること、ぜんぜんできない。
だから、 「しょってたつ」ことはとても不安だし、できるかわからない。

でもいよいよ、そういう時期が日本の社会にも来たんだ、
と今日、思い知らされた。

僕は、K先生にあこがれながら、そして、まちづくりのありかた、
日本の社会づくりを彼に任せ頼っていたのかもしれない。

でも、大事なのは、これからの社会はわれわれが作り上げなくてはいけなくて、
その中でこれから自分がどのようにまちを作って行きたいか、
つくっていくことに携わるのか、人生に何を得るか、ということだ。

だから、自分はできるときにできることを、自分のスタイルを大切にして
ひたむきにやっていくしかないんだな、と思う。

K先生の、純粋な興味とひたむきになれる情熱。
それを裏付ける科学的な考え方。そして、みんなから慕われ、
衝突を恐れずともどうしても憎めない人間性。

これからも僕はそれにあこがれながらも、目指しながらも、
でも、僕は僕がやるべきことをひとつずつ見つけ、
階段を登っていこう。

そう思った。

+++

K先生は、ドアの写真を撮るのが好きで、たくさんの作品を持っていた。

「いつか、どこかの街をテーマに一緒に写真展をやりましょうよ」

といった僕に、

「いいね」

と言ってくれた。

あのときの約束どおり、僕は一眼レフ買ったんですよ、先生。
でも、こんなに急では、それもできないじゃないですか…。


先生、天国のドアの写真は撮れましたか?

僕はまだしばらくは変わっていく日本の街を撮ろうと思います。
先生もたまには、そちらのきれいな景色だか、酒場の景色の
画像を送ってきてください。


 

About

2009年07月31日 12:26に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「取り組みの過程にはVIKが大切」です。

次の投稿は「パッチワークキルト専門店 ドリーム・テテ」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。