母校の明治学院大学国際学部では竹尾茂樹先生のもと、島嶼社会研究の分野を専攻していました。
沖縄、台湾での短期間住込みのようなフィールドワークがあり、今から考えても、素晴らしいゼミだったと思います。
その一環で、沖縄の基地問題や住民を巻き込んで行われた太平洋戦争末期の沖縄戦についても学びました。
沖縄戦では、多くの住民が、迫りくる「女はすべて強姦して殺し、男や子供は寝かせて戦車で踏みつぶす山羊の目をした鬼畜米英」と日本軍から教え込まれていた住民が、自分の愛する家族を手にかけて死なせています。沖縄戦では、数十万の住民と軍人が巻き込まれましたが、連合軍の放った弾薬は、一人当たりに換算しても何度も死なせるに余りあり、そして、沖縄全体を掘り返すに十分な「鉄の暴風」と表現されます。
自分の親や兄弟に、薬物の注射をして死なせた看護女学生。
「泣くと位置がばれるから殺せさもなくば、赤ん坊をよこせ、殺してやる」と日本軍や他の人から迫られて、赤ん坊の首を絞めて殺した母親。
手りゅう弾で自決した家族や親せき。
がけから子供を抱いて飛び降りた母親。
今はほとんどいなくなった生還者の体験話や手記は、本当に胸が苦しく、直視することが耐えられない内容でした。
それらの人たちが、愛する家族を、なぜ死なせたのでしょうか?
「愛しているなら、どうして守らないのだ」
と僕は最初、思っていたのも事実です。
しかし、状況はあまりに絶望的でした。
日本軍とともに、南部に撤退していった住民は特にひどく、逃げ場を確実に失っていきます。
そのような中で、愛する家族を手に掛ける。
これって、無責任でしょうか?
私は、「愛しているからこその、愛情表現」である、ということに、学習を通じて気付きました。
深い愛に裏打ちされた、行動だったのです。
人間の愛情表現は、多くの勇気や寛容さ、自己犠牲を伴う表現はいろいろな方法があります。
私たちにとって幸せであるのは、それが誰もが笑顔になれる環境で、方法で発揮されることではないでしょうか?
でも、あのときの沖縄では違った。
なぜでしょうか?何が、人々をそのような悲しい愛情表現に追い込んだのか?
同じように、戦争で散華した学生たちの遺書集「きけわだつみのこえ」を読めば、若い20歳そこそこの彼らが、国のためにと言いながら、実は愛する家族のために絶望的であることを知りながら死んでいったこともわかります。「自分の死が戦争を好転させることはない」と知りながらも「自分が死ぬことで早く戦争が終わり」「愛する家族や子供たちが明るい未来に向かえる時が早く来るように」と片道切符の特攻に出て行った学生もいます。
なにが、彼らをそこに追い込んだのでしょうか?
私は、社会の大人たちの無関心、安易な迎合、意図的な教育と、そこへの参画。目先の利益や繁栄感覚への終始、そして、閉塞的な時代環境による人々の鬱積が時の為政者にうまく付け込まれ、利用されながら時間をかけて自分たちを自滅に追い込んでいったのだろうと考えています。
今の日本はどうでしょうか?
私たち大人は、私たち自身を追い込んではいないでしょうか。
やがて来る近未来、愛する子供や家族を、愛情ゆえに悲しい結末を迎えさせる、あるいは苦しい状況に追いやるようなことを、積み重ねていないでしょうか?
原発問題しかり、目先の国家運営しかり、安易な米国の戦争への支持参加しかり、でも、一方でそれは本質的には政治などの問題ではないのです。
私たち、一人ひとりの問題です。物事に根拠や知識なきまま看過し、流されているのにどこか利己的な、将来への意志なき私たち一人一人の問題なのです。その小さな積み重ねが、私たちの将来を暗くしていないだろうか?
あまりに多くの大人たちが、大人しい今の時代。
私は、大きな危惧を抱かずにいられないのです。
原発の問題もしかり。
今のまま、もしかしたら、私たちは将来、自分の子供や家族、あるいは自分たちが家族を残し、悲しい現実に直面するかもしれません。
その時、残された愛情表現は?みんなが笑ってる?
そんなことはありません。悲しみに裏打ちされた、悲しい愛情表現しか残らないのです。
本当に、幸せな愛情表現を望むのであれば、我々は、いま、物事に対して無関心や無知であることは即、やめることです。