自分事であるか

自分事であるか

雨上がりの飛騨古川での一コマ

ここの所、岐阜県で空き物件利活用にかかる仕事をしています。
先日、現場入りする前に、
9年ほど前に訪れ非常に感銘を受けたまち
飛騨古川(飛騨市)に立ち寄ってきました。

古の街道筋に残る蔵と用水路の町並み、古い骨格を残す建物。
日本酒の発行するにおいが漂うまちなかの酒造。
近年、ヒットしたアニメーション映画で脚光を浴びたまちですが、
そこにあるのは観光に迎合したような光景ではなく、ごく普通の日常風景。

9年前に訪れた時、まちなかの酒店に入り、
そのお店の女性と話したことを覚えています。

「古川のまちは美しいですね。
格子戸にさりげなく花が飾ってあるのも印象的です」

「私たちは、”自然体”でこのまちが好きなのよ。
だから、普通にそうやっているの」

この言葉は私にとってとても腑に落ちるもので、大変な示唆でした。
そして、今でも

「まちづくりに関わる人が自然体でまちを好きでいるか」

という事への視点は、地域をチェックするときの大切な要素です。

これまで関わってきたまちづくりの現場では、
その視点のフィルターを通して少なからず出会ってきた場面があります。

それは、私がまちづくり関係者の皆さんにこう質問したときのこと

「あなたは、どのようなまちであってほしいですか」

答えはかえってきません。
聞いてみると、まちなかにも住んでおらず、
普段も休日もまちなかに来ることはない、という事でした。

そこで質問を変えます。

「どうしたらあなたは、普段から、あるいは休日にまちに来たくなりますか」

残念ながらたいていは、この問いへの返事も聞かれない場面が多いのです。

まちを変えていくことが、具体的にイメージできない。
それは、現実が見えすぎてアイデアが硬直的になっているとか、
地域のしがらみが先に立って制約条件ばかりを考えてしまう、
あるいは、
あきらめに近い気持ちに支配されている、
そんなこともあるかもしれません。

ただ、根本的な原因は別にあると思っています。

それは、その地域のまちづくりが「自分事」になっていない、ということです。
自分が楽しさを描けない、感じない、来ようとも思わない地域に
どうしてほかの人が来るというシナリオを描けるでしょうか?

もっとも、職務上の立場で関わっているだけなので「自分事」にしづらい、
という人もいるでしょう。

やはり、キーになるのは

・そこに住み、その地域を変えていかねばいけない人
・そのエリアに魅力や可能性を感じている人
・住んでいる人同様に自分が関わる地域であるという意志を持っている他地域の人

なのではないでしょうか。

まちづくりは、
「自分が行きたくなるか、過ごしたくなるか」
「家族は、友人はどうだろうか」
という視点を持てば、具体的な課題も見えやすくなります。

「自然体でまちを好きでいるかどうか」
「どうしたら好きになれるか」

自分事として、描くことが大切です。

伊藤大海 1976.2生まれ 東京都日野市在住。 愛知県半田市中心市街地活性化市長特任顧問。 まちづくりコンサルタント。 経済産業大臣登録中小企業診断士。 地域の資源に目を向けた活性化プロジェクトや活性化エンジン組成、事業構想支援など。
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