「恥の多い生涯を送ってきました」
太宰治の「人間失格」はそう言い放つ。
人と違う感覚、感性を持つからこそ
幼いころからそれを悟られまいとして自分を偽り、
青年となっては自分から日陰者に堕落していき、
そしてようやく出会った優しさと居場所を失うことから自殺を試みた結果、
一番そばにいたはずの人たちから自分がどう見られていたかを知り、
「自分は人間失格だ」と思い至る…
作品を書き上げてすぐ、太宰は玉川上水に愛人とともに身を投げた。
青森県の工藤パンの太宰治コラボ「人間失格カステラサンド」は、そんなストーリーを感じさせないほど甘い。
”「ルヴァン種」を使用したふんわりとしたカステラに…”
そう、確かにふんわりしている。
荷物がたくさん詰まった私のカバンで3/5ほどに圧縮されてしまっているとはいえ、やわらかい。
ルヴァン種の故郷、フランス田園の柔和さを感じる。
しかし、どこか感じずにはいられないパサつき。このカステラは潤っているばかりではない。そこまで甘い時間には浸らせてくれない。
パサつくがゆえに、渇いたのどにへばりつくような粒子。
そう、これが物語の陰鬱さに通じるというのか。
「ジャリ、ジャリ」
かみしめるほどに、頭蓋骨を伝わって脳にしみるにわかな不快にちかい感覚。
これは―
”イギリストーストに使用しているシュガーマーガリンをサンドしました”
やられた。
通常のカステラは、外側に”ザラメ”がついている。
あからさまに「砂糖をこんなに使うぜいたく」をいやおうなく見せつけるのだ。ひけらかすのだ。その行為がまた「こんなに贅沢なものを食べている自分」の優越感という虚栄を与える。
しかし、工藤パンの「人間失格カステラサンド」は違う。
外見にザラメなど感じることはない。
かみしめたとき、初めて見えなかった内面を知ることとなる。
そしていっぽうで「人間失格カステラサンド」自体もまた、”逃げ場”を失うのである。こちらに対して赤裸々なその本性を示すことになるのだ。
ここからは、不毛だが続けざるを得ない戦いなのである。
外から見えぬ本性。甘いが甘すぎず。パサつく。徐々に高まるジャリ感の病み付きさ。
噛みしめるほどに「人間失格」という作品を ここまで否応なく「追体験」させるパンが今までにあったであろうか―
「恥の多い生涯を送ってきました」
いつしか、自分を振り返り、涙をこぼしそうになる。
いや、数滴は落としたかもしれない。
あれほどパサついていたはずのカステラが、潤っている。
そうか、そういうことか
不毛と思えた戦いの末に、ようやくたどり着く場所。
「君は、失格じゃない」
食した時に、何かを乗り越えて得たような情動と空虚感のアンヴィバレント。
「人間失格カステラサンド」
それは、牛乳が良く合う「文学」。
今度は工藤パンの「わいはっ!走れメロンパン」を食べたい。
どのような「文学」に出会えるだろうか。
○工藤パンが太宰治生誕110年コラボパン 発売前からネットで話題集める(弘前経済新聞)
https://hirosaki.keizai.biz/headline/1184/