2000年当時にプログラマーからようやくSEになってきたかな、
という過ごし方を経てまちづくり分野で独立した自分です。
COVID-19のテレワーク化は自分も例外なく巻き込まれている中で、
ふと、「あの頃のにおい」を感じ始めました。
それは、90年代後半からのにおいです。
当時しきりに喧伝され進められた「IT化」「IT革命」。
『ドッグイヤー』という言葉で、
「かつての7年は今の1年」といわれるほどの「効率化」が
実感された時期です。
では、かつて7時間(=ほぼ1日の労働時間)かけていた仕事が
IT化によって「1日1時間労働」となり
人々は「残り6時間を余暇や消費活動に回せた」のでしょうか?
答えはNO、でしょう。
むしろ、1つの仕事の価値は、1ではなく0.いくつ、
というようにはるかに下がったのです。
70分かけていた仕事が10分でできるようになった。
だったら、70分で7つの仕事ができるよね?
7つの責任を負えるよね?
給料は7倍になったでしょうか?
そこに答えがあります。
「今までの給料、勤務時間は変えない。その代わり、7倍のことをやれ」
1つの仕事の価値は下がったのです。
新たな価値を生み出さない価格競争に突き進み、
それはまた、物事の価値はさておきいかに安くさせるか、
という習慣化しました。
私の業界でも、ベテランコンサルタントの方が
「以前はこの業務で〇百万円だったよー」と懐かしそうにいうのを
我々の世代になって「〇十万円」「〇万円」で、
(古い内容の仕事ではなく、今も本質的に必要な仕事の話です)
ということが珍しくありません。
COVID-19のテレワークでは、企業は考え始めています。
・通勤帰宅時間を使わず場所を借りず効率的で、
これまでの給料と同じでよりたくさんの作業をさせられること
・これまでの作業量であれば拘束時間を短くでき、
その分の報酬を減らせるのではないかということ
前者はある意味、
正当な生産性の向上といえるところもあるかもしれません。
後者については恣意的な「仕事の価値の下落」の口実になりうるでしょう。
私の仕事でも、
相手先によっては「拘束時間が減ったから」という理由で
これまでの報酬の半分を提示されているところがあります。
ちょっと待ってください、私が提供しているのは時間占有権ではなく、
仕事そのもので提供している価値です。
それは何も変わっていないはずです。
効率的な仕事ができるようになった。
それでも、仕事の価値や業務量がこれまで同様であった場合、
多くの場合そこには「余暇」が生まれます。
「余暇」は時に社会課題解決に役立つコミュニケーションや
社会にお金を循環する「消費」につながっていくことになります。
仕事の価値を下げ、
また業務量に追われるようなことを「生産性」と見なしているうちは、
どんどん苦しい状況に追い詰めていくだけでしょう。
先日、とある企業が
「テレワークで勤務時間中に働いているか、ランダムで画像を撮影し会社に送る監視システム」
を開発したという記事を読みました。
思わずため息です。
いつまでそこにとどまっているのですか?
時間=仕事じゃなく、価値=仕事なのです。
プライバシーとかもどうなっちゃうのでしょうね。
テレワークの普及は
これまでの無駄や意味のない苦痛を取り除く効果があったといえます。
一方で、社会にとってそれがどうあるべきかという点については
人が機械部品のようにモノ扱いが進み、仕事の価値が下がり、
氷河期のような非正規雇用を大量生産した「あの頃」のような
政治・経済論理だけにゆだねるべきではない、と感じています。
このテレワークの普及は、適正な価値を見据え、
余暇と消費を増やすチャンスになるのか、
またこの20年の価値下落路線を突き進むのか、
その過渡期にあるのではないでしょうか。