レンタルサーバー障害…
レンタルサーバー「ロリポップ」のサーバー障害があり、
サイトだけでなくこのブログのデータがすべて消えてしまいました。
晩餐会シリーズなどはバックアップがあるのですが、現在
復旧作業中です。原状回復は不可能だと思いますが、
グーグルのキャッシュから救出できたテキストに関しては
またボチボチ復活していきますので、よろしくお願いします。
それにしても、酷いサーバーだった。
ホスティングサーバーもミラーリングしている他社に変えました。
レンタルサーバー「ロリポップ」のサーバー障害があり、
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復旧作業中です。原状回復は不可能だと思いますが、
グーグルのキャッシュから救出できたテキストに関しては
またボチボチ復活していきますので、よろしくお願いします。
それにしても、酷いサーバーだった。
ホスティングサーバーもミラーリングしている他社に変えました。

今年も、焦らず、確実にやっていきます。
よろしくお願いいたします。
中小企業大学校の診断士養成課程で同期だった大分のAさん。
もともとブルーグラスというジャンル(まあ、カントリーのようなもの)
でバンドをしていたのは知っていたし、大学校時代も演奏を見たことがある。
で、最近、どうやらその手の人たちの間で彼のユニット「レモンスライス」
(レモンパフィ)が名をはせているらしい。
また、Aさんは、大分でのブルーグラスフェスの仕掛け人でもある。
確かに、月間ブルーグラスジャーナル「ムーンシャイナー」などにも、
Aさんご本人が書かれた記事まで載っていた。
で、この「レモンスライス」というのが、銀座も銀座、銀座のど真ん中で
ライブをやるというので、早速行ってきた。
それが、小さなビルの3F,小ぢんまりとした扉を抜けると一面ウェスタンカントリーな
お店、ライブハウスレストラン「ロッキートップ」(http://www.liverocky.com/)
というか、さすが銀座、テーブルチャージで2000円。
小ぢんまりとしたお店には、40代から60代くらいのお客さんで
ひしめき合っていた。
早速、レコードを半分折にしたメニューからバドワイザー瓶を頼み、
瓶のままグイグイやりながら出番を待つ。
レモンスライス。左が同期生のAさん
(年齢はちょっと離れているが)
ウッドベースとギターのレモンスライス登場。
小さい頃にブルーグラスを見て、大人になってからはじめたという
ゆうちゃん(vo&bass)の声はナカナカ色気がある。
自分は、ブルーグラスというジャンルの曲目はいまいち知らないのだが、
70年代のイーグルスあたりは聞きあさっていたし、コンサートも行ったし、
とても心地よい音楽だと感じた。
それにまた、店内の演出がよりいっそうそれを引き立てること。
Aさんのギターや歌声は逸品だが、それに加えMCの面白いこと、
面白いこと。
MCの中でも「日本で一番鋭い診断士の伊藤大海さんもお越しいただいております…」
なんて、ちゃっかりご紹介をいただいてしまった。
アンコールはしっかりと、2曲やっていただきました。うーん、満腹。

タイバンのバンド「ディキシーバグズ」&右端は飛び入りの「エルビス・グラス」
ディキシーバグズは、茨城のフェスで意気投合した仲間が
作ったとのことで、札幌より登場。
軽快なマンドリンとバンジョーもあいまって、これぞブルーグラス、
といった感じだった。
今にも、会場のおじさんたちが踊りだすかと思った。
で、最後に飛び入りしたのは北九州から上京していた
「エルビス・グラス」。
ちょっとMCがあるのかな、と思った矢先にいきなり
ブルー・スウェード・シューズが始まった!
声も渋いし、なかなか本格的だ。
ディキシーバグスも、バックを盛り上げている。
こうして、銀座のど真ん中であることをすっかり忘れて3時間、
すっかり堪能させていただいたのです…。
しっかり演出されたお店で、しっかりした演奏を聞く。
自分は高校生時代、トニー・ラマのウェスタンブーツにラングラーの
ブーツカット、トニーラマの掘り込みベルトに小粋なバックル。
古着屋で買った70年代のウェスタンシャツにレザーベストを着て、
頭はエルビスの初期型リーゼント(とがっていない)でばっちりと
ウェスタンカントリーを決めていた。
エルヴィスに憧れ、
イーグルスに遥かなるアメリカの大地を思い、
ジャニス・ジョプリンの歌声にかき立てられ、
リッキー・リー・ジョーンズに涙し、
トム・ウェイツにしんみりし、
ドアーズに常識を疑わされ、
キャロル・キングに暖められ、
エアロスミスに見せ掛けを否定された。
いつからか、それを追うことをやめ、普通のJPOPを聞き、普通の格好となった。
なんだか、ボウリングもそうだが、元気にソウルを追い求めている、
それを人生の喜びの一部としている
おじさんおばさん(失礼)をみて、自分もまた、
あの頃の気持ちが
掻き立てられた気がした。
これって、実はとても大切なことのような気がする。
そういう姿を見せること。見られること。
それはきっと、人生の豊かさだけではなく、社会をも育てる。
ネット上で通販を手広く手がけていたpc-successという店が、
どうやら営業を放棄したようで騒ぎが起きている。
会社の前にも、人だかりしているようだ。
実は、自分もこの店で商品を購入し、散々な目にあったことがある。
「納期 4-5日」
という表示を信用して購入したPCパーツが、届いたのは実に1ヵ月後。
その間、何度かメールで催促したが、返事がないので、
法律の条文を持ち出して
「責任者から返事が欲しい、連絡先を教えて欲しい」
とメールしても、こちらの要望がまったく反映されない、コピーしたような
返信が数日立ってから返ってきたのみで、あきれ返るばかりだった。
(もっとも、返事すら来ないTBSや、うそを平然とつくマツダのサービス部門
なんかよりずっとましだが)
自分はその件以来、まったくこんな店舗を使わなかったし、
他人にも使わないように勧めてきた。
だから、今回の騒動も、起こるべくして起こったことがよくわかる。
お金を払ったのに、商品が納入されない人が多くでているようだ。
日常の応対がちゃんとできない店。
その店は、信用するべきではない。
テレビで中井貴一主演の壬生義士伝をやっていた。
以前、テレビドラマ版の、渡辺謙がやっていたものを見ていたので、
あらすじもよく知っていた。
渡辺謙のものも、とても見ごたえがあり、良かったが、
中井貴一のものもとても良かった。
中井貴一も、佐藤浩一も本当に良い役者だ。
それにしても、この物語はよくできている。
家族を守るため、出稼ぎで新撰組にはいった吉村。
貧しさにあえぐ家族を守るために、守銭奴と笑われながらも努める。
しかし、その実は一人の武士として、義を抱いて
無理だと思うことを承知で倒れていく。
最後、義に死ぬ心と家族に会いたい、生きたい気持ちで葛藤する。
そして…
家族を守るということ、そして、一人の人間として生きること。
大儀を抱くということ。
人として生きることは、貫くことでもある。守ることでもある。
人としての気高さとは何か。
久々に、日常のモヤモヤした不安や悩みから解放された気がした。
最近、故意に信号無視をするバイクや車を良く見かけるようになった。
今日も、我が家の前の交差点で20時ごろに赤信号を待っていると、
そこらへんにいそうな若者二人乗りの大型スクーターが、
交差している青側の車が途切れた合間に信号無視をしていった。
先日は、同じ交差点で夜、ホンダのオデッセイが赤になってずいぶんたつ
交差点を信号無視していった。ともに、減速して青側の車がいない
のを確かめて無視した確信犯だ。
車に乗り出した10年前ぐらいは、信号無視といえば深夜の地方の
交差点なんかでたまに見るぐらいだった。
でも、最近は普通に街中で見かけるようになった。
老若男女問わず。
自転車や歩きで信号無視するのとも違う。
十分に人を殺し、傷つけ、社会に大きな迷惑をかけるバイクや車。
そうそう、今朝は、小田急線の踏み切りで乗用車が立ち往生した
とかで、電車が遅れた上に、すごく混んでいた。
「自分がよければいい」
「ルールなんて、破ってもきっと許される」
「何をしようと自分の勝手だ」
この国のモラルはどうなってしまうのだろう。
人は石垣、人は城であれば、この国は危うい。
そしてこれは、一部の人間だけの問題ではない。
何を隠そう、自分はお米が大好きだ。
おいしいお米を食べているとなんとも幸せな気分になる。
お米のおいしい日本に生まれてよかったなあ、なんて思うし、
飲料でも米由来の飲料は大好きだ。
先日も、お手伝いしている企業の社長さんにそのお話をしたら、
「3年連続で米食味鑑定コンクール」で「最多得票」をとっている
お米があるから、分けてあげる、といって玄米でいただいた。
ちなみに、
我が家では炊飯ジャーではなく、火で米を炊いている。
それだけでも物好きかもしれないが、さらに装備を整えてしまった。
今日もおいしいお米をいただいたのだが、早速その装備を活用。
装備とは…
圧力式精米機
買ってしまった。
精米機には、攪拌式と圧力式があるのだが、
圧力式のほうが米が壊れにくい。
攪拌式より割高でメンテナンスが大変だが、
それでも玄米で保管しているお米を好きな分つきにして
食べられるのはとても魅力的だ。
玄米は、3分つきにした。
なんといっても、米はこのぬかに栄養をたくさん持っているのだ。
火で炊く
ホクホク出来上がりました。
いただきまーす!
自分が飼っているフェレットという動物を虐待する様子を
動画で撮影し、インターネット上で公開、インターネット掲示板で
「虐待だ」という閲覧者の指摘に対し堂々と「反論」していた
30歳の男が逮捕された。
☆引用 はじめ☆
フェレット虐待→ネットに動画投稿の会社員を逮捕
4月11日14時45分配信 読売新聞
ペットとして人気の高いイタチ科の小動物「フェレット」を虐待している映像をインターネットの掲示板で公開していた事件で、
神奈川県警生活経済課は11日、同県厚木市東町、会社員森山慎一容疑者(30)を動物愛護法違反容疑で逮捕した。
調べによると、森山容疑者は2月上旬、自宅で飼っていたフェレットの頭を手で殴ったり、 のどを押さえつけて呼吸困難にさせたりして虐待した疑い。調べに対し、「ストレスのはけ口だった」と供述している。
森山容疑者は3月3日未明、ネット掲示板「2ちゃんねる」に、
虐待の様子を撮影した動画を投稿したとみられる。県警には映像を見た人から、捜査を求める通報や嘆願書が数百件寄せられた。
☆ここまで☆
虐待の内容も、首を絞めたり、痛めつけたりとひどいものであったとはいえ、
この一件は現代社会を象徴するものだと感じた。
小動物の虐待は、日常的に起こっていることかもしれない。
しかし、それをインターネットで「披露」した。そして、掲示板ではほかにも、
「フェレットの歯をニッパで切った」「掲示板での追求が激しいので、フェレットを近隣の公園に放した」
といったことを書いている。
今までは、小動物の虐待で、警察が動いて「逮捕」され、実名報道
されてきたということはあまり記憶にない。
しかし、この件では、警察がその動画の公開者を割り出し、逮捕し、
実名を公表したのだ。
そして、重要なのは、その警察の動きの背景には、
動画を見て心を痛め、怒りを覚えた人々による警察への働きかけが
多くなされた、ということだ。
そして、掲示板に参加している投稿者による、犯人の特定も進められていたようだ。
+++
掲示板による「犯人」の特定は、実は結構行われている。
他人の自動車に乱暴を働いて傷をつけ、相手に土下座させた、
と自分の公開するインターネット上のページに記事を書いた人物が
いたのだが、この人物も、名前も、顔も、住居もすべてが特定された。
また、猫を虐待した画像をのせて逮捕された福岡の男も
警察が逮捕する前に、インターネット上ではほぼ特定されていたと記憶する。
+++
これらのインターネットユーザーは、いまや、良くも悪くも大きな力を持っている。
今回のように、良心的なものもある。(ただ、良心的だからといって、方法として
正しくないときもあるが)
一方では、インターネット上では朝鮮の人々、障害者の人に対する差別用語が
もはや違和感なく飛び交っている。
先日、逮捕された小学校教師が公開していたような悲痛な事故死者の画像の例のみならず、
残虐な動画や画像、卑猥なものだって、
小学生なども、簡単にそのような情報に触れられる。
そして、いまどきの小学生は、「死者は生き返る」という認識を持っている者も
少なくないと調査されている。
+++
インターネットは国家権力だけではなく、マスコミや企業への大きな働きかけの
力をすでに持つのだ。
メーカーや保険会社の不条理な対応をインターネット上で公開して、
社会の力に変えた例などは、インターネット普及期にすでにあるのだ。
ときに、インターネットはそれらに大きな影響を及ぼし、個人にだって破滅的な
結果をもたらすこともできる。
一方では、「インターネット発」アイドルの誕生など、今まで埋もれていたものに
チャンスが生まれている。ツールは使い方しだいで常に両面価値的だ。
だからこそ、企業のあり方が問われる。コンプライアンスだ。
いや、突き詰めれば、それは個人の倫理観にも当てはまる。
最近、インターネット上では、とある掲示板の「援助交際」に関するコメントを
世界に名だたる大手家電メーカーのサーバーを経由して書き込みが行われたことが
判明し、話題を呼んでいる。
ちなみにくしくも、そのメーカーとはこの日記の冒頭のフェレット虐待の会社員と
同じ会社だ。
この「インターネット」の力をあなどってはいけない。
経営者は当然、従業員の「個人の倫理観・道徳観」のあり方を軽んじてはいけない。
自社・自分にとってマイナスに働かせるのではなく、いかにこの声をポジティブな方向で
自分たちの味方にできるか、ということが重要なのである。
そしてそれは表面的なことではない。
見た目はよくても、実態が伴っていなければ、やはりインターネットの
負の力を受けることになるだろう。
企業は、このようなインターネットへの対応をもっと重視し、方針を明確に
もって実践するべきである。
そして、くどいようだが、それは小手先ではなく経営レベルからでなくては意味がない。
+++
それにしても、である。
インターネットは、一つの世界、一つのルールを作り上げている。
しかし、その仮想世界のルールを、現実世界に持ち込む風潮が
近年随分見られるようになってきたと思う。
しかしながら、基本はやはり、「現実世界」であって、
「仮想世界」は現実世界のルールに準拠しなくては、
社会的破綻の懸念は実現することになる。
何でもかんでも規制するというのではない。
しかし、無責任に何でも言ったり、何でも見せたりすることが「自由」ということではない。
「自由」には、「義務」が伴うからで、その「義務」には現実社会的に通用しうる
人としての良心は不可欠だ。
そして、現実と仮想の切り分けをしっかりと認識できる教育を進める必要がある、
ということだ。このことに関して、今の日本社会はあまりにも無防備だ。
そのことを、社会はもっと重視してもよいものではないか、と思う。
※当文章の転用・転載・引用・抜粋はお断りします
1週間ほど前だろうか。大手証券会社のインターネットサービスから、
家内のインターネット株式取引口座の申請をした。
昨日、帰宅してみるとマンションの集合郵便ポストにこのA4サイズの
申込書一式と冊子入りの封筒が折りたたまれて入っていた。
小さいポストである。引っ張り出すにも分厚い冊子が引っかかりちょっと難儀した。
そして、取り出してみて、唖然。
封筒の下部が破れて、あるいは、破られて「全開」になっている。
実物
真ん中にひっかかったあとがあるのはポストの中でひっかかったもの。
きれいに切れている
あわてて中の書類を確認する。
そこには、インターネット上から申し込む際に入力した家内の
名前だけでなく銀行口座、年収、職業などが一通り記載されていた。
「え、これ、誰か見たの?」
これがそのときの感想。
「それとも雨で開いたのだろうか?」
それにしても、きれいにやぶれている。
警察に電話しようか?悩んだが、とりあえずは調査が先だ。
すぐに、証券会社の窓口に電話した。
■ここで私が伝えたこと
【要望】関連部署に対し、 この件についての原因と対応をフィードバックしてほしい
1.個人情報に絡む件、犯罪もありうる事件なので、 この件は非常に憂慮している
1)問題点が二つあるのではないか
・個人情報を取り扱う封筒なのに、簡単に破れる(破られる)素材でできているのは
問題があるのではないか
・個人情報取り扱いに対して、配送業者に注意を喚起し、しっかり管理するのも
御社の責任ではないか
総じて「サービス提供者の意識として」問題があるのではないか。
☆この件に対するサービス窓口の一次回答
・封筒の件について
素材等を含め、このような苦情を承ったことを関係部署に厳しく伝えおく
・配送業者の件について
このような苦情があったことを、関係部署から業者に注意を促すように伝える
・申込用紙が雨などでぬれて使い物にならなくなっているか?
(その場合、再度発送する)
☆一次回答に対する私の回答
【要望】この封筒がどのような経緯で開封されたのかをしっかり調査してほしい
・この件は、仮に誰かが「故意に開封していた」としたら、「事件」 であると考えている
・その意味で、「ただ関連部署に伝えおく」という回答で納得できるわけがない
・事件であれば、被害届を含め、検討しなくてはならない
・必要であれば、メールに画像を添付して送付する。特定のアドレスを教えるのが困るなら、
ネット上からそちらに閲覧していただけるよう、作業するのもやぶさかでない
・申込用紙に関しては、再度送られても、このような情報の取り扱いを受けるのでは
到底安心してお任せすることはできない。申し込み手続きはここでストップしたい。
この時点で、証券会社より「後ほどご連絡します」とのことで電話を切る。
2時間後、管理職と思われる男性から電話を受ける。
非通知着信のようであったが、当方は非通知着信を拒否しているので
直後に番号通知でかかってきた。
一通りの謝罪のあと、報告を受ける。
☆報告事項
「当方発送時には、封筒に破損はない」
・今回の冊子小包は、印刷・発送を依頼している印刷会社から発送されている。
・印刷会社では、発送前に機械で郵送物のチェックをしており、その時点で破損があれば
対応している
・金曜日の19時には集配局の蕨郵便局に持ち込まれている
・封筒に関しては、関連部署に必ず話をあげる
☆私の対応
「配達員までしっかり調査してほしい」
・今回の件は、場合によっては事件として扱われる案件である
・御社の発送時に破損がないという件は了解、収集後の問題と捉える
・しかしながら、結果は収集後以降の出来事とはいえ、起因する原因は
封筒の素材を含め、御社にもある事は変わらない
・また、配達時、配達後に発生したことだとしても、
御社も(人ごとではなく)それを把握している必要があるのではないか
(把握していなければ、社会的大問題につながる恐れがある、あるいは
賠償請求などを検討する必要がある、の意)
☆私の対応への反応
「さらに調査を進める」
・確かに、当社としても把握しておく必要があると考える
・さらに調査し、明日、また報告する(このとき17時くらい)
☆私の反応
明日の報告、了解、お願いします。
明日、といっていた報告は、それから1時間ぐらいして、当日内にからかかってきた。
☆2度目の報告
「登戸郵便局より報告させる」
・配達した局は、登戸郵便局である
・登戸郵便局に連絡し、担当者が戻ったら事情を聴取し、伊藤のほうまで
報告するようにお願いした
・報告を受けるのに都合のよい日時を教えてほしい
【今回の証券会社の対応にする評価】
・封筒の件に関して
☆評価できる点
職業・年収だけでなく、銀行口座さえも特定されてしまう情報を収納する
封筒の素材が、雨や人によって簡単にあけられてしまうものであったことに
対して、問題点を率直に認めた。
また、その件については、必ず該当部署に伝達するということであった。
☆改善を願いたい点
しかしながら、具体的対応策などは提示されなかった。
・配送について
☆評価できる点
比較的迅速に、「印刷業者」「郵便局」にたいし調査を行い、その都度、
報告をしている。
☆改善を願いたい点
最終的に、こちらと郵便局の直接のやり取りとされたことは残念である。
その理由は2つある。
1)結局、最後まで責任を持って、対応をしてもらえないのだろうか。
2)証券会社側がしっかりと郵便局からの最終報告を受け、その結果を元に
自社としてもとるべき対応を図らないのだろうか?という疑問を持つ。
それと、電話してくるとき
「非通知」
で掛けてくるのって、
それってすごく失礼&無責任ではないですか?
つづく。
※当文章の転用・転載・引用・抜粋はお断りします
翌日、郵便局より電話あり。配達した本人から。
一定の謝罪のあと、一応状況を確認された。
☆郵便局の報告
「配達時に破れていない、破ったわけではない」
・配達時には破れていない
・配達時に事故で破れた、ということはない
・破れた場合は、局に持ち帰り、補修し直接手渡す
・郵便物を乱暴に扱うことはない
・強引に折り曲げてポストに入れたことに関しては、
「郵便物は完全にポストに入れること」と上部から通達されている
・もし、破損が続くようであれば、誰かが故意にやった可能性もあり、
再度連絡がほしい
☆私の対応
・配達時に破損がない場合は、個人情報がらみの器物損壊として
警察などに被害届を出すことも検討する必要があると考えている
・当方としては「配達時に破損がなかった」のであれば、それが確かであったことを
確認したい
(郵便局;「一日にたくさんの配達をしているから一つ一つ覚えてはいないが、
たぶん、破損したら局に持ち帰るので、破損していない」)
・「たぶん」ではなく、「破損は絶対なかった」と言い切れるか
(郵便局;「絶対なかった」)
・「配達時に破損が絶対なかった、ということなので、被害届を含め、
こちらで後は検討する。
その際は、またそちらに調査などで手間をかけるかもしれない」
(郵便局;「今後、配達にはいっそう気をつける、スミマセンでした」)
・冊子を折り曲げてポストに入れるのはやめてほしいが、
今回の件でそちらが破損をさせていないのであれば謝る必要はない。
お手数をおかけしました。
【クレーム対応の評価】
責任を持つ管理職ではなく、その配達員から連絡を受けたことに関して、
私は非常に不満足である。
私の感想だが、その局員は常に自分の主張を繰り返していて、
話を自分のペースに持っていきたい様子であった。
特に、最後のほうでは、「とにかく話を終わらせたい」ようで
強引に話をまとめに入っていた。
とはいえ、彼は自己の責任を持って「絶対に破損していない」というのだから、
それを信じよう。
かくして、結局封筒が開封していた原因は不明であり、
今後の対応を思案している。
郵便局の言い分に従えば、
封筒は
・自分で勝手に開いた
または
・誰かが故意にあけた
ことになるわけである。
これは、大事だ。
今回の件から見えてくるのは、単なるクレーム対応の方法だけではない。
方法論以前の、もっと上位概念のあり方である。
結局、今回の問題は解決しなかった。
こうやって消費者にしわ寄せが来る。
しわ寄せを受けた消費者は、積極的にそのサービスを利用しようとするだろうか?
今回の件は、二つのことで防げたはずだ。
・封筒を、雨などに破れにくく、故意にあけたときにわかりやすい、ビニール製とする。
・配達は、強引に折り曲げてポストに入れるのではなく、面倒でも階段を上り、
新聞受けに入れる。
証券会社・郵便局ともに一つずつ。それをしている、していないでは、
結果に雲泥の差がある。
消費者の受け取り方をまず考え、対応するあり方が、企業には問われている。
それにしても、どうしよう。
本日、とあるネットオークションで2人の異なる「商品発送地域」と
「ID」の出品者から、それぞれ同じ商品を落札した。
どうやらそれは、オークション詐欺のIDらしく、現在それが進行しているようである。
■事の発端
オークション上で、とある商品に目をつける。
その説明文章は日本語で、長々と機能などが説明してあり、
取引の注意事項も書いてある。
ただ、画像が明らかにその商品自体ではなかったのと、
説明文にやや不自然な表現があった。
入金先を見ると、どうやら日本の銀行ではない。
厳密に言うと、日本の銀行を中国語表記してあったようだ。
とはいえ、そのIDでは過去に多くの取引実績があり、
「悪い出品者」との評価はない。
また、ほかにも多くの商品を出品している。
金額も、個人的に決めている損害許容額の範囲内なので、
入札し、落札した。
■何か変だぞ
数時間して、夜。
ネットオークションの取引連絡用の掲示板に、出品者からコメントが来る。
…
銀行口座だけ書いてある。
しかも、思いっきり中国語が文字化けしていて読めない。
通常、オークションでは、
「はじめまして」
から始まり、
「短い間ですが、よろしくお願いします」
とまずは出品者が身元を明かすものだ。
しかし、ここには出品者の住所や電話番号も書いていない。
さらには、2人別々のID、出品地域の商品を落札したのに
「銀行口座番号が同じ」
思いっきり胡散臭い。
「中国の社会じゃ、こういう方法なのかもしれない」
そう善意に解釈しようとした。が、やはり調べることに。
■調査の結果は?
調査、といっても、そんなたいしたことはしていない。
1)
そのIDの過去の行動を読む
→ 評価欄で、過去の落札商品の動向、評価、そして、
そのIDが記入している文章を分析
2)そのIDで、今回落札した商品が評価されているかを見る
(事前に見ているが)
→ 評価欄に、その商品を落札した人がよい評価をしていれば、
信憑性があがる
3)
そのIDで詐欺の報告がないか探る
→ グーグル検索を行う。掲示板を検索する。
4)
商品説明文章が共通しているほかの出品者などの過去の行動を見る
→ IDをコロコロ変えている可能性があるのと、
もともと商品説明文章を
他人からコピーしている場合、コピー元が迷惑をしていることがある
5)
先方からの連絡を無視してみる
→ 基本的にオークションはすばやい返信が行われるが、
あえて返信をしない。
これ他の調査を行った結果。
1)
そのIDの過去の行動を読む
その結果、
そのIDの過去のオークション取引では、今回出品されているものと
同じようなカテゴリにくくれるような取引は皆無であった。
まったく趣向の違うものが数多く取引されていたことがわかった。
しかも、出品よりも落札がはるかに数が多い。
しかし、今回、そのIDではざっと数えても20以上の商品を同時に
出品しているのだ。
さらに着目したのは、過去の評価のやり取りは
「日本語がかなり丁寧で上手」
なやり取りをしている
ということであり、漢字も日本のものであった。
2)そのIDで、今回落札した商品が評価されているかを見る
(事前に見ているが)
その商品では、評価者がいなかった。
調べてみると、そのIDがその商品をオークションに出し始めたのはここ2日。
オークションの説明には「入金確認後、2日以内に発送」とあるので、
最速でも明日に評価がつくことになる。
あまりあてにならなかった。
3)
そのIDで詐欺の報告がないか探る
グーグルで検索をかけてみる。そのIDの過去の取引と、現在出品している
取引のページ、ここ二日すでに終了しているページが出てきた。
しかし、特に詐欺の報告は出ていないが、4につながるいくつかの情報が
でてきた。
4) 商品説明文章が共通しているほかの出品者などの過去の行動を見る
これは効果覿面だった。
まず、文章であるが、他の出品者の商品説明をまるっきりコピーし、
入金先だけを変えていることが判った。
その出品者は、出品ページの中に以下のような注意書きを書いている。
「最近、このページの商品説明をコピーして出品している出品者がいますが、
私はその出品者とはかかわりはなく、一切のトラブルに関与していません」
つまり、この出品者はおそらく、何らかの問い合わせや苦情を受けている、
ということであり、ここでいう苦情というのは
「商品が届きません」
というものであろう事は容易に推測できる。
そして、今回私が関連している出品者の商品説明の文章は、
さらにいくつものIDで同様の文章をコピーして出品していることが
判った。
そして、過去にすでに終了している取引でも同様であり、
そのような取引の中から気になるものを多々みつけた。
それは、
「IDが停止中」
となっているものが多いということだ。
つい先日まで、色々な良品の取引実績があるのに、ある日突然、
今回の商品を出品し、落札され、そして数日後すぐに
「ID停止」
となっている。
つまり、これは、それまでは正常にさまざまな商品を取引し、評価が悪くなかった
出品者がある時点で悪いことをして、サービス会社に通報され、IDを強制停止
させられたことを意味している。
あるいは、IDを不正使用された本人が気づいて停止させたか、である。
5)先方からの連絡を無視してみる
この調査の結果も面白いものであった。
はじめ、口座だけが届いたメールだが、
一時間もしないうちにもう一通届いた。
それには、文字化けが若干修正され、フリーのメールアドレスが
加えられ、文法が変な日本語も書かれている。
つまり、
「早く住所を送ってほしい、入金してほしい」
ということ。
しかし、これも無視した。
すると、さらに1時間もたたないうちに督促第3弾が来た。
どうやら、口座番号ははっきりと判るようになったようだ。
そして、その口座名義は中国名ではなく、おそらく朝鮮半島系の
物であることが判断できた。
そして、その支店名は、「出品地域」とは遠くはなれたものであったのだ。
■この取引は限りなく詐欺に近い
上記のことより、
・このIDによる取引は非常に詐欺的要素が強く、
取引が誠実に履行されないリスクが高い
ことが判ったのだが、さらにいえるのは、
これらのユーザーIDは、これまで実在し、使われてきたものであり、
それが今回の取引においては第三者に不正使用されている可能性が非常に
高い、ということである。
そして、商品の画像と本文の差異などについては簡単な表現でも
修正されていないこと、私に来たメッセージが中国語であったことから
おそらく、出品者は日本語の文章が理解できない外国人であると考えられた。
また、
連絡を無視しているときに矢継ぎ早に催促をしていることについては、
早く入金させたい、ということもあるだろうが、
こちらの氏名、住所、電話番号を抑えて身動き取れないように
したいのだろう。
取引で、
クレジットカードや後払いのサービスを使っていないということは、
相手が現金を確実に手に入れようとしていることを意味している。
私の立場、つまり落札者は
出品者の名前や住所、電話番号はこの時点でもわかっていない。
それなのにこちらから伝えてしまえば、あとからどのような手を使っても
入金させられる可能性が高い。
たとえば、「お前の家に行くぞ」と電話がかかってくれば、こちらは
どこの誰かもわからぬ人間におびえて、結果的に入金せざるを得ないのだ。
■フィッシングによるID不正取得からの
犯行の可能性
それにしても、「他者のIDを第三者が使う」ということは可能なのだろうか?
可能、なのである。
それを可能にするIDとパスワードの入手は、いくつかの方法がある。
a) 直接人が入力しているのを見て、IDとパスワードを盗む
b) スパイウェアを相手のパソコンに感染させ、そこから入力された文字列を読み取る
c) 巷にID,パスワードが流出しているとして、それを有料で入手する
そして、可能性として高いのが
d)フィッシングというインターネット上のトラップ(罠)をつかい、相手にニセの
ページからIDとパスワードを入力させ、それを記録しておく。
おそらく、今回用いられているのは”d”のフィッシングだろう。
かつて自分も、ヤフーオークションのログインページそっくりに作られた
フィッシングページに遭遇したことがあるが、一見しては区別がつかない。
そしてそれは、メールで「お得なオークション開催中」や、
掲示板などで、「この商品を見てみて!すごいから!」などのような
誘導を行い、ユーザーの好奇心をあおってニセページにログインさせ、
その際にIDとパスワードを記録してしまうのだ。
今回、私が直面しているIDの過去の取引結果から見れば、
随分オークションをやっているようだ。
さらには、ある種のマニア的傾向を持っていると明らかにわかり、
そのネタでフィッシングに引っかかったであろうコトは推測がつく。
■対応~信義上の理由からキャンセルを
まずは、サービス運営会社にメールを入れた。
また、自分自身は相手にメールアドレスはばれているものの、
それ以外はばれていないので、もう少し返信をしないように
しようと思う。
相手は、メールをよこせ、といっているが、ここでうかつにメールなど
出してはいけない。
そこには、相手に渡ってしまうこちらの情報があるからだ。
たとえば、どこのサービスプロバイダで、
どの地域のアクセスポイントを
経由しているか、など。
メール情報からだけでは個人は特定することはできないのだが、
それでも必要以上に相手に情報を渡してはならない。
さて、明日中にでも
IDが「停止中」になれば明らかに何らかの被害が発生したことがわかるし、
逆に、
そのIDに今回の商品をほかに落札した人からお礼の評価が入れば
確かな相手だという確証が少しはもてる。
いずれにせよ、結果的には
「信用できませんので、取引はキャンセルします」
ということになるだろう。
まあ、もしかすると相手からは「悪い落札者」だと評価を受けるかも
知れないが、説明と事実が異なることを行っている相手とリスクを
犯してまで取引をする義理はないだろう。
■今後への教訓・改善
オークション、ネットショッピングの経験は豊かなほうだと考えている。
だからこそ、油断が起きてしまい、相手の与信審査を十分に行うことなく
失敗するところであった。
今後は、これを教訓に気を引き締めなおす必要があるだろう。
今回、調査時に行ったような作業を、きちんと事前に行おう。
大切なのは、後始末ではない。前始末であり、
その状況を回避することなのだ。
中小企業大学校の中小企業診断士養成課程について、情報を探す人が多いらしい。 それに伴って発信する人も増えたようだ。すばらしい研修だから、その経験が社会に知らされ、還元されるならば喜ばしいことだ。ちなみに、 この手の情報はインターネット上の某巨大掲示板にも色々と書かれている。
気になるのが、「新養成課程(2006年から始まった、一次試験合格者の半年コース)は旧養成課程 (一次試験合格者でなくとも入試に合格すれば一年間学べるコース)よりレベルが高い」とか「旧養成課程と一緒にされては困る」という、 本当かどうか知らないが、在学生もしくは卒業生による書き込みがあることだ。
旧養成課程も、新養成課程もどちらの研修にも携わり、研修生を見てきている自分から見れば、 そんなことを言っている時点で、診断士としての資質・水準を疑わざるを得ないというのが本音だ。
そもそも、2001年以前の診断士など、今の診断士と位置づけと期待される役割が違うのだから、 その時点で比較しても意味が無いし、診断士としてそれに考え至らないということもよもやあるまい。
何を持って「優れている」「劣っている」というのだろうか。その人は、 現場で物事をどのように判断しているのだろうか。一次試験に合格していることが優れているということなのか?
さらにいえば、犯罪予告、 犯罪の告白なども書き込まれるその手の巨大掲示板に診断士や研修生を名乗って書き込みをすること自体、脇が甘いとしか言いようが無く、 そういう主張は自分でサイトを作って本名も出して堂々とやればよいと考えている。
いずれにせよ、診断士の資格は道具でしかない。それをどう使うか、それを優れたものにするかしないか、 それがどのような優秀さを持っているかは表出したり、言葉で解説できるとは限らない属人的な資質、能力、努力、心構えによるところであり、 知識の多い少ないなどをもって一言で比べたり評価することはできないのである。
簡単に言えば、旧養成課程だろうと、新養成課程だろうと、 診断士として社会のお役に立つ人はたつだろうし、そうじゃない人はそうじゃない、ということだ。いってしまえば、「コンサルタント」 としてみるなら、診断士の資格なんぞ持たずとも活躍している人だってゴマンといる。冒頭のものの見方からすれば、 診断士を持っていない時点でそのコンサルタントは診断士に劣っている、ということにもなりそうだが、そんな考えはあまりにも馬鹿馬鹿しい。
自分が学んできたものや環境にプライドを持つことは悪いことではない。しかし、その本質を語らずして
(そもそもよく調べもせず)うわべを捉えて比較、主張するような、
養成課程を貶めるような根拠ない書き込みは中小企業大学校の診断士養成課程卒業生として、本当にがっかりさせられてしまうのである。
何を隠そう、自分は鯨が食べたい。
海洋国家に生まれたもののDNAだろうか、
牛なんかより、よっぽど鯨のほうがいい。
「なんであえてまずい鯨なんか採りたがるんだ」
なんて意見にはまったく同意しない。
かなり前の話で今はあるかわからないが、
二子玉川の高島屋のなか(だったと思う)
のすし屋に、「くじらの赤身」の握りがあった。
やはり、値は張るので、いつもは食べられないが、
こいつは一回食べると病み付きになる。
脂の少ない赤身。
新鮮な赤身の弾力と、歯ざわりが、馬刺しでもない、
牛肉の刺身でもない、また違う風味を楽しませてくれる。
残念ながら、そんな新鮮な鯨の刺身を味わえるところは
とても少なくて、ピンク色の鯨のハムのようなものや、
竜田揚げのようなものの形でしかお目にかかることが無いのが
いたく残念である。
IWCの総会が、案の定「反捕鯨、反日本」で進んでいる。
そもそも設立時は「資源活用」について決めていく会だったのが、
今ではすっかりと「捕鯨国を非難する会」となっている(しかも感情的に)。
この会は、まったく何の会なんだろう?
自分と鯨の付き合いは、結構ある。
憶えているのでも小学校2年生ぐらいのときから。
自営業・共働きの我が家は、家族旅行なんて片手の指で足りすぎるほどしか
いったことが無いのだが、西伊豆の雲見温泉へ旅行したときに、鯨に触れることになる。
もっとも、鯨といっても、骨格だ。
ある喫茶店だかお土産やサンに入って、落ち着きの無い自分が
ふと2階に上がったら…
そこに、セミ鯨の骨格が置いてあったのだ。
初めて触れる鯨の姿。
でかい!
そして、なんて立派な骨格。
こんなのが、海を泳いでるんだ!
子供心に、鯨のイメージを膨らませ、ワクワクさせてくれたものだ。
この骨格は「雲見くじら館」にいまでもある。
かつて、雲見の港に迷い込んで絶命してしまった12mの若いセミ鯨だ。
そして、人々は骨格を日本でも珍しいセミ鯨の標本として保存し、
鯨の供養のために石碑を立てた。
ちなみにセミ鯨は漢字では「背美鯨」とかく。
背びれを持たず、湾曲した背中が美しいからだという。
人生の中で、数えるほどしかない家族旅行。
その中で、この鯨の骨格は思い出に彩を与え続けてくれている。
+++
中学3年生のときは、当時所属していた読売新聞の子供記者団で
特別取材班に選抜され、小笠原諸島で鯨に関する取材をしたことがある。
ホエールウォッチング。
当時は、人間と鯨の境界線は100mであり、観測船は
それ以上近づいてはいけない決まりを作っていた。
それは、鯨のためである。特に、小笠原にザトウクジラがやってくるのは
出産と、子育てのためであるのだ。
ぶはーっ、ぶはーっ!
とザトウ鯨が潮を噴き上げて群れで泳いでいる。デカイ。
ときおり、水面から鯨が胸びれをだす。バッチン!と水面をたたく。
それは「こっちくるな」という合図。
かと思うと、別に遠ざかるわけでもない。小さい尾びれが、
大きい尾びれを追いかける。
尾びれの裏の白黒のまだら模様は人間でいえば「指紋」。
それぞれがオリジナルの模様を持ち、人間からの固体識別に使われる。
リズミカルに持ち上がるのではなく、
ぐわーん、
と尾びれが持ち上がるのは、深くもぐる合図。
鯨は、深海までもぐることができ、長時間もぐることが可能なのだ。
だから、人間が嫌なときは、そうやって遠くへいってしまうこともある。
でも、このときは違った。
このとき、深くもぐったのはブリーチング(ジャンプ)をするためだったのだ。
深海から一気に数十トンの巨体を水上に踊りあがらせるブリーチング。
この恐ろしいほどのエネルギーの発露は、相手を威嚇するため、とも
いわれるし、体のフジツボや寄生虫をとるため、ともいわれる。
はたまた、子鯨のために見本を見せることもあって、子鯨が練習で
下手なブリーチングをすることもある。
このとき、外洋の波に木の葉のようにグラングランゆれる船から
僕が400mmレンズとニコンの一眼レフを用いて撮影に成功した
ザトウクジラのブリーチングの写真は、
紙面に大きく載ったのはもちろん、
テレビのニュースでも紹介されたのだった。
+++
海の神秘。巨大な生物への興味。
新聞に掲載するための記事を書くとき、
いろんなものが入り混じって、僕はその時の感情をどう表現していいか
判らなかった。
「怖い。でも、やさしい。
魅了され、その絶対性を認め、尊敬を感じずにはいられない気持ち」
広辞苑を眺めた。恐怖ではない。尊敬では足りない。
そんな言葉あるのか、あるのか。
あった。
日本人は、古来よりそのような感覚を持ち、言葉を用意している。
「畏怖」
僕は、記事で「鯨をみて畏怖感を感じずにはいられなかった」
と書いた。
+++
このとき、鯨の水中写真家、望月昭伸さんにも取材した。
生命を見つめ、その躍動を銀塩フィルムに切り取る。
(大きな鯨に魅了された彼の優しいまなざしと笑顔が忘れられないが、
数年前、彼は小笠原で撮影中、ついに帰らぬ人となった。)
「生きる鯨のすばらしい写真を撮ること。それは、その生命自体に目をむけ、
その生命を写し取ることに他ならない」
というような表現で記事を書いた。
+++
鯨との付き合いはまだある。
高校生のとき、米国ボストンでのホエールウォッチング。
ボストンは、かつて米国の捕鯨船の一大母港であった。
ボストンにも、沖合いにザトウクジラがやってくる。
そして、よく言われるように、米国人はボストンや、遠くは日本まで来ては
鯨をたくさん獲り、油をとってオイルや石鹸にし、肉は捨てた。
彼らにとって捕鯨とは、生きるための日々の糧ではなく、
商業ベースの、工業製品の「原料」であったのだといえる。
広い国土にさまざまな資源を持つ彼らにとっては、
鯨に日々の糧を求める必要は無かったのだから、肉など捨ててもよかったのだ。
ちなみに、捕鯨の母港であったボストンのホエールウォッチングには
「境界線」はない。
小笠原のホエールウォッチングよりはるかに大きい客船で、
何百人も人を乗せて鯨に際限なく近づく。
だから、僕が行ったときは鯨は船に向かって泳いできて、船のほんの30m
ほど手前で船の下をもぐり、反対側に現れるような、遊びだかなんだか
判らないことをやってのけた。
鯨の頭部のフジツボだってよく見えたし、その大きさに船が
転覆するんじゃないか、なんて心配もした。とにかく、海に
こんなでかい生き物が生きているのだ、と感激した。
船に乗っているアメリカ人も大興奮だ。
鯨が右に現れれば右舷が傾き、逆に現れると一斉に駆け出して
左舷に行くので船が左舷に傾く。
アトラクションとしては、一流のエンターテイメントなのかもしれない。
「境界線」を意識し、決まりを作って距離を持つ日本。
「境界線」なんてお構いなしに際限なく近づく米国。
どっちが鯨を大切にしているんだ、と思う。
結局、日々の生きるために口に入れるものとして鯨に接してきた
日本の文化、風土と、
そうではない工業製品の原料としてきた米国人の鯨感には
まったく違う、理解しあえない溝がある。
個人的な感想だが、日本人のほうがよっぽど鯨を尊敬し、
大切にしている。
そして、米国人の多くにとって、鯨は「ペット」のようなものなのだろう。
慈悲心。という言葉がある。
日本の調査捕鯨では、銛を撃ち出す砲射手は、
正確に鯨の急所を狙おうと努める。
それは、鯨が苦しまぬように、即死させるためだ。
調査で結局、採取するのだから、どういう殺し方だっていい、
なんてことは無い。
命をいただくものとして、その生を尊重し、相手と自分が平等だと
考えるが故の振る舞い。
相容れないこれらの行動の中で、「抜苦欲楽」(ばっくよくらく)のために、
砲射手は鯨を確実に即死させようとする。
慈悲心。
そして古来より、日本の各地には日々の糧となった鯨に感謝し、
迷い込んで死んだ鯨の供養を願う鯨塚が人々の手によって作られてきた。
それを、欧米人に理解しろ、というのも、無理かもしれない。
彼らは憐憫(対等な立場からではない哀れみの気持ち)の
考え方を持つのだから。
鯨はむしろ、ペットのような存在なのだろうから。
いずれにせよ、調査捕鯨において西洋の環境団体が砲射手の
射撃を妨害して結果的に鯨が即死できない状況に追いやったり、
(結果的に鯨はもがきながら、呼吸できずに水死することになる)
17頭のクジラの死骸を、街の真ん中に並べたり(2007年、ベルリン)、
大きい鯨の死骸を日本大使館の前においてさらすなど(2006年、ベルリン)、
そのような「残酷」なセンスは日本人と彼らの隔絶されたセンスを感じさせる。
科学的調査の上に、鯨を貴重な食資源として活用しようとしている
捕鯨国の日本こそ、鯨を、その尊厳を守っている。
僕は鯨が好きだ。
鯨は畏怖感に足る動物で、やさしくもあり、魅力的だ。
とはいえ、うちにいる60匹近い金魚だって、実は十分にそうだ。
西洋人が大好きな牛だって、
うまれて屠殺されるまでに一生でほんの数分しか太陽を拝めない
フライドチキンのための鶏だって、
何かにつけ丸焼きにされる七面鳥だって、
生前は汚いものの代表のように蔑まれるブーチャンだって、
本当はみんなそうだ。
鯨だけが特別、なんて考える理由はどこにも無い。
そもそも、鯨だけを保護すると生態系はどうなるのだろう。
日本は資源が乏しく、食料自給率が極めて低い。
食肉のための資源だって、外国に頼りっぱなしだし、
依存せねば国が成り立たないのである。
これは、腕に常に生命維持のための点滴針が刺されていて、
そのチューブの先のコック(栓)は日本人ではなく、
外国人が握っているということを意味している。
そして、その点滴の薬液はいつも生命にいいものとは限らない。
未知の病気に侵され、確実な検査もされない牛肉や、
国内でも警告が出るくらいの農薬がついた野菜。
たとえそうでも、それを薬液として使わざるを得ないのが今の日本。
それは、国が国家として成り立っていない、ということもできるのだ。
つまり、今も昔も変わらず、日本人にとって鯨は大切な食資源であることは
間違いない。
「戦後何も無い中でこそ鯨が貴重だった」
というのは不正解。
何でもありそうな現代も、実は日本には何も無い。
だから、今でも日本人には鯨の助けと共存が必要なのである。
そして、その鯨は、栄養だけではなく、
味覚としても十分においしいものなのだ。
(終わり。)
追記
鯨という生物が地上から消えてしまうことは防ぐのは当然だ。
人為的にそれをしてよい権限なんて人には無い。そしてそれは、
人の将来を脅かすことなのだ。
それを防ぐことを、調査に基づいた科学が役割を担っている。
でも、世界ではその科学すら否定されようとしている。
一部の国家だけでなく、日本社会においても見られる忌忌しき問題。
それはこのような生命の掠奪、否、享受の上に我々が糧とする肉が、
あたかも工業製品のように次々と生産されて出てくる、
そんな感覚で日々口にすることではないか。
スーパーの肉や刺身が、
もともとどういう形をしているか知らない(つまり、もともとそういう形で
どこかで作られていると思っている)、知っていても考えない、
考える必要性がわからない。そんな風潮があるようにも思う。
ハンバーガーはもともとああいう形のものであって、どこかで作られてる。
自分はべつに、食べられればいい。
と。
古来、鯨塚を作りながら日々、生きていくためにその生命を
いただいていた捕鯨は、そのような視点からは語れないと思うし、
そこからは日本の文化や社会の有り方の問題も見えてくる。
自分は実は金魚好きだ。詳しくは、趣味のための姉妹サイトのブログ
にも書いてあるのだが、たまにはこちらにも画像をアップしてみよう、
と気が向いた。
我が家では現在60匹ほどの金魚が水槽とベランダの池に生息している。
その中の数匹をご紹介。

青文魚という、本来黒い金魚の色が抜けて、白くなっている。
真っ白になったら、それを白鳳(パイフォン)とよぶのだが、
今のところ、まだ青文かな?性別はオス。
頭の肉瘤が発達し、エラ蓋にかからないほどよいフンタンといい、
なかなか立派。しかも、オレンジ色がおしゃれ。
しばらく体調を崩していたので、肉瘤が若干小さくなったが、
看病のかいあって回復したので、また復活するかな。
江戸錦のメスと交配させようと思ったが、この春はうまくいかなかった。
秋に再チャレンジ。
今のところ一番大好きな金魚やサン、本郷三丁目の「金魚坂」で購入。

同じく、金魚坂で購入した水泡眼。
リンパ液の入った頬袋がなかなか立派で、
なかなか愛嬌がある。
退色は透明鱗の桜模様でところどころに反射鱗が光っている。
こちらはネットで購入したライオンヘッド(中国らんちゅう)の黒仔。
針仔(生まれて間もない)の状態で45匹購入。
1回目の選別をして、二つの水槽に分けた。
(ハネた金魚も捨てられず、育てている)
エサは最初はブラインシュリンプを孵化させて与え、
「姫錦」をたまにあげていたが水の傷みが早かった。
なので、今はたいていは「咲きひかり」の育成、色揚げ、増体のミックスと、
冷凍ミジンコ。
現在、ベランダでミジンコを沸かしている最中なので、それが沸いたら
与える予定。
どんな色になるのか、どんな発育をするのかがすごく楽しみ。
水温の変化が大きい梅雨の病気に備え、当分は部屋飼い。
いずれ、金魚関連のお仕事も手伝いたいなあ。
という気持ちで、愛知の弥富をレンタルサイクルで走り回ったこともある、
金魚好きです。
ネットサーフィンをしていたら、近年よく各地のイベントに登場する
とある「踊り」に関する北海道新聞の記事をみつけた。
曰く北海道新聞社が行った調査では半数以上の人が、
その「踊り」が「嫌い」と回答したとのこと。
「お金が絡みすぎ(商業ベース)」「参加者の態度が問題」
などという批判的意見があるようだ。
この記事を見て、まあ、批判的な人が多いのだろうとは
思っていたけれども、
「へぇ~、そういうところが問題視されているのか」
と思った。
個人的な日ごろの感想から言えば、
とあるイベントで人気になったことがきっかけで、
日本のあちこちで、なんでこんなにたくさんおなじ
「踊り」がされているんだろうなんて考えてしまう。
地域とまったく関係ない得体の知れない「借り物」が
はやっていて、それを地域の祭りの目玉にするなんて、
どうなんだろう、と思う。
その踊りは長年の民衆の生活の積み重ねの上に醸造されてきた
高知の伝統的踊りと北海道の伝統的踊りを融合させた、
などというが、
よく、高知県と北海道で暴動が起きないものだ、
と思っていた。
それよりむしろ、その「踊り」が北海道で行われていた
ことに、ひどくがっかりしたものだ。
その「踊り」は、リズミカルな音楽に一糸乱れぬ、オリジナリティ
ある踊りで街を練り歩く。
見れば、踊り手たちの情熱も伝わるし、それなりに感心する。
「元気がもらえる」「一生懸命さに打たれる」そういう評価があるのも良くわかる。
だから、僕は一つのサークル活動としてのその「踊り」は
否定しないし、それはやりたい人が自分たちで納得してお金を出して
やる分にはまったく問題は無い。
でも、それが、古からの文化に根付いた高知の踊りを語り、
北海道の踊りを語れるものなのだろうか?
いくらベンツとBMWがそれぞれよさを持った車だからといって、
二つをくっつけて
「ベンツBMW」なんて、ありえないのと似た感覚を抱く。
自分が、日本の各地でどこもかしこも、ある法人の懐にも入る
参加料金を払ってその「踊り」を乱発していることに、
僕は
金を払ってすでにあるものを使いたがる、
創造力のなさ
を常日頃感じてきた。そして、訪れる街々で、大々的な
その「踊り」のイベントポスターを見ては、
「ここも他と変わらないんだ」なんてガッカリする気持ちを覚えた。
スタンプのようにどこでもやっているイベントを大々的に
宣伝している地域に、
外から来た人間はどんな期待を抱けるというのだろう?
本当は、その町や地域にだって、ベースにできる「良さ」、
(その「良さ」とは、その地域での生活の積み重ねにより
そこに存在するはずの文化)
があるのに、そんなのを無視して、やれまちづくりだ、
やれ賑わいだ、などと十分にやることもせずに
「踊り」なるものを借りてきてお金をかけてイベントをする。
そんなの表面的なものだ。
毎年、それにお金を払い続けていくというのか。
地域や団体によって違う創意工夫があるからオリジナルだ、
などといったって、
それは一部のサークルの人たちの創意工夫であって、それは
その地域の文化ではない。
だから、それはまちづくりとして根付き、永続するモデルではない。
10年後に日本各地から集まった人に
「出身地の売りは何ですか?」
と聞いたときにその「踊りです」
とかなったりして、などと思う。
まちづくりというのは、その地域に住む人が過去から受け継いだものを
日々の生活でつむぎ、新しく磨き、そして将来につなげていくものだ。
もちろん時に、革新的で創造的なものが外的要因で起こることは
あろうが、それは、「モノマネ」では起こりえない。
本当にまちづくりにそれを活かしたいなら、そこから
地域住民の生活と文化に根付いたまったく新しい
地域の価値を生み出さねば意味が無い。
目に見えて活力を失っていく地域が多い。
そんな中で、派手なこの踊りで街を一時的でも明るくしたい。
そんな気持ちがわからないでもない。
でも、なんでその地域に伝わるお祭りを、
その地域に伝わる踊りをアレンジして、新しいものを作り出さないのだろうか。
安易に、すでに作られたものや、漫画のキャラクターを
街中に並べたりしなくてはいけないのか。
この創造力の欠落、
創造をしようとしない、しようという人を疎みまでする傾向が
本当はまちづくりと賑わいを奪い去っている。
そして、残念ながら自分はそんな多くの町を見てきた。
ちなみに、鳥取県で「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクターを並べた
商店街「水木しげるロード」なるものが人気だと近年騒がれているが、
僕が高校時代をすごした調布の布田天神まえの商店街には
もう、とっくのとう、随分前から鬼太郎のキャラクターが並んでいた。
水木氏が調布に住んでいるのだ。
それに、同じく調布の深大寺の御茶屋などでは鬼太郎にちなんだ
メニューだってある。
僕にとっての水木しげるロードは調布だ。
最近、鬼太郎が誘拐されて大変らしいのだが…リモコン下駄は通用しなかったか。
NHKの大河ドラマ「風林火山」にどっぷりはまっている。
ひさびさに骨太のドラマで見ごたえがある。
本日は、敗北を知らず、敗北を恐れる
武田晴信の無謀な作戦が元で晴信の重要な両腕、板垣と甘利が
討ち死にをする「上田原の戦い」。
甘利を演じる竜雷太、
板垣を演じる千葉真一の演技が光る。
いぶし銀の演技は、武勇だけではなく情の深みを
うまく描き出していた。
また、晴信を演じる歌舞伎役者の市川亀治郎も、
「濃い」信玄を演じている。
武田氏の歴史の基礎資料である「甲陽軍鑑」は、
江戸時代に編纂された創作物であり、実際の武田の
あり方がそうであったのかは不明である。
(山本勘助の実在自体も議論はあるのだが)
しかしながら、たとえそうだとしても、
孫子の兵法をもちいた武田の戦略や、
武将の人間模様というのは、なかなか興味深い。
「人は石垣、人は掘」
勘助を含め、信玄が多くの重要な人物を失う中で、
人の信頼を得て人を動かす力、
そして、大きな物事を成し遂げていく力とは何だったのか。
甲州法度という法律を作り、晴信は、絶対君主だった
自らをもその法の中に置く。
「自分がその法を破るのであれば、その法の裁きに従う」
人間の営みは、その表現方法は変わっていても、
基本的に不変である、と思う。
+++
毎週日曜日が楽しみで、久々にNHKにお金を払っていて
よかったと思う…。
でも、数年前に訪れた武田神社(躑躅ヶ崎館あと)に、
キティちゃんの石像が置いてあったのは…
どうかと思う。

かわいいけど。
今年もまた、この季節が来た。
8月15日の敗戦の日。
NHKの水木しげるの「全員玉砕せよ!」を見た。
見終わったあと、胸が詰まって苦しくなった。
部隊、仲間が不条理な玉砕命令で悲惨に斃れていく。
無駄死にするなと命令違反をさせ81名の兵隊を救った
中隊長の自決。
腕を失いつつ生き残った水木しげるは、
漫画家としての成功を収めつつも、常に”その記憶”を抱き続けてきた。
そして、亡き仲間たちの「亡霊の思い」を背負い続けてきた。
彼はあるとき、彼の体験を漫画にする決意をする。
夜、彼はうなされる。
今まで心の引き出しにしまいこんできた悲惨な戦場の記憶を
搾り出して筆を進める。
そしてあるとき、亡き戦友たちが彼の元をたずねてくる。
「中隊長の自決で、話を終わらせないでくれ」
++++
中隊長の命令違反により、生き残った81人の将兵。
その81名は後方にある作戦本部により、
「玉砕命令が出たのに生き残ることは、日本軍の恥」
であるとされ、自決か、再度の玉砕のための突撃を強いられ、
圧倒的な敵に突入させられる。
そして、玉砕を命じた作戦本部の参謀は、玉砕部隊に参加せず、
見送るだけだった。
水木は、その様子まで漫画に書き続けた。
++++
そういえば、牟田口という将校により発案され、周囲が
「彼の顔を立てる」ためにその作戦を実行させた結果、
結果的に多くの前途ある将兵を死なせて
行った無謀な「インパール作戦」というのがある。
これは権威を振りかざす牟田口が自己の名誉心にかられ、
一方で自己の責任を負わず、現場の将校に責任を押し付けた
作戦でもあった。
このとき、補給が絶たれた絶望的な戦場においてもなお、
作戦本部の命令は「撤退せず絶対死守」であった。
しかし、ある部隊の大隊長は
「自分がいる限り、部下は命令を守らないといけない。
自分が居なくなれば、彼らはこの絶望的な戦場から逃げることができる」
のだと、銃弾が飛び交う戦場に自ら飛び出し、そこに仁王立ちとなり
銃弾を受けて戦死したという。
また、違う部隊では、師団長の独断により撤退し、部下の命を
救った行動があった。
その師団長は、最前線に来て現実を見もしない牟田口を批判したのだが、
逆に精神病院に送られてしまう。
この「不条理な状況」は、現代社会のさまざまな場面でも
思い出されるのは、私だけではあるまい。
++++
沖縄戦下での住民の集団自決が、
軍から強制されたということが教科書から
削除されるという。
自分は学生時代にいくつかの、観光地化されていない集団自決が
行われた沖縄のガマ(自然壕)を訪れ、5cm先も見えないくらいに
暗い闇の中を歩いたことがある。
沖縄戦の生き残りのオバーに、生々しいその戦場での話を聞いたことがある。
戦場で自決して行った住民は自決のとき、自分の愛する家族を手にかけていった。
注射器で、カミソリで、手りゅう弾で。
しかしそれは、
米軍につかまれば女性は辱めのあとに殺され、男性は戦車にひき殺される、
そう信じ込むよう、軍隊から教育を受けていたからだ。
そんな彼らの、
「家族や愛する人を守ろうとする愛情表現」
だった。
そのような状況は、他者からの強要なしに自然に芽生えるものではない。
++++
多くの兵士は、人と人が殺しあう戦場において、「大義」を求めた。
そうでなければ、彼らは命をかけて戦えないからだ。
戦況が悪く死が強要されるほど、彼らは折り合いをつける理由が必要だった。
そしてその多くは、
「家族や愛する人を守るための愛情表現」
だった。
自分の命を失う。
愛するものの命を自ら手にかける。
愛情表現の方法として、これは悲劇・不条理以外の何ものでもない。
人が個として生き、相手と出会い子孫を作り上げていくように、
愛情表現は、相手のために自分の命をはぐくみ、
相手の命をはぐくみ、そしてよりよい何かを作り上げていくことだ。
++++
私は、自分の祖父の出征映像に出会い、それを見た。
20歳で長崎島原の北有馬から満州に出征する祖父。
そういえば、自分が幼いころ、生前の祖父に戦争のことについて聞いたことがある。
祖父の戦場体験を聞く自分に、祖父は決して、
自分がどういう体験をしてきたかを語ることはなかった。
右足の大腿部に貫通銃創の傷跡を背負っていた彼も、
きっと心の奥の厚い扉の向こうに背負うものがあったのだと、
いまさらながらに思う。
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水木を取り囲んで、自分たちの思いを伝えようとする亡き
戦友の亡霊たちは、まさしく水木の心の奥の厚い扉の向こうに住む。
彼は勇気を持って扉を開けた。
それは本当に簡単なことではなかったと思う。
そして、あのシーンはきっと、
「事実」を体験し、背負っている人々に共感と勇気を促すものだったの
だろうと思う。
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「事実」を背負うものが年老い、失われていく中で
「事実のような嘘」は仮想の世界で人々の心を染めていく。
それがいつしか、
「嘘のための事実」
になっていき、人を殺しあう戦場はゲームのようになっていく。
(しかし、戦争しようと社会を導く人間は、戦場には居ない)
だからこそ、「事実の証言」の価値は重大だ。
残された時間の中で、
何を伝え、何を、どのように受け取っていかねばならないのか。
10年後、30年後、50年後、自分たちの子供や子孫に同じような
戦場に直面させないためにも、過去と将来を紡ぐ「今」の意味が大切だ。
敗戦の日の今日をはさみ、憲法論議についてはずいぶんメディアをにぎわせている。
護憲と改憲という二つに分けられ、それぞれの意見が交わされる。
国会でもしかり。
護憲派は戦争はしてはならないことだから、維持すべきだ。
改憲派は日本が攻められたとき、またはそれが明らかなとき、
軍隊を持って先制を含めしかるべき対応ができるようにするべきだ、
といった議論だ。
自分たちの国のことだから、こういう議論がありうるのは別にいい。
しかし、この議論、腑に落ちない。
大きく、2点において。
1.100年後の日本の姿はどうあるべきなのか。
ほとんど、語ることはない。
「目指すべき国家としての理念やビジョン」なき議論は、なんと根拠が浅いことか。
憲法そのものの位置づけすら、もしかしたら議論の当事者にとっては
ばらばらだ。
そしてもう一つ。
2.現在の憲法の理念に対し、
その実現にどれだけの努力が払われているのか
現状の憲法では、戦争の放棄と、軍隊を持たぬことになっており、
国際紛争を武力で解決しないことになっている。
永久に戦争を放棄することが、憲法にうたわれている。
では、その、憲法の実現に、どれだけ具体的に努力しているのだろうか。
少なくとも、それに努力し、努力し尽くした結果としての
改憲への政治的動きなのだろうか。
「日本が攻められたらやられるままでいいのか」
というが、それ以前にどれだけ内政や、ほかの国に対して
「戦争放棄」
の働きかけをしているというのだろう。
「時代にそぐわない」
のであれば、そのつど変えるのが憲法なのか。
逆に、本来あるべき取り組み、「そぐわない時代を変えていく」
取り組みはどのようにされたか。
改憲論の中には、ビジョンとして米国に依存しない、日本の
「自主独立」を語る人も居る。
現状では自主独立できないのか。自主独立の先には何があるのか。
自分には疑問が残る。
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特攻隊員で終戦を迎え、
今は平和のための案内人をしている人がいる。
「昔は、戦争はしてはいけないことだ、という必要はなかった。
しかし、今は、若い人の中には戦争をしてもいいという人が増えているから、
それを言う必要がある」
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どちらにせよ、自分の気持ちとして確実にいえるのは
自分は自分や子孫、大事な友人たちが、そして、どんな人でも
戦場に居るようになってほしくない、ということか。
「そんなの理想論だ」
という人もいるが
「理想なくして何を目指すのか」
と思う。
久々に、高校野球が楽しい夏だった。
個人的には、優待するなど県外からも優秀な生徒を集めたり
する風潮がヒートアップしてきたことから、高校野球には
幾分さめていたのだが、それでも今回は楽しかった。
今回の大会は、佐賀北高校のための大会といっても過言じゃない。
延長15回の引き分け再試合。
帝京高校戦でのサヨナラゲーム。
そして、劇的な満塁ホームランでの優勝。
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しかし、最後に残念なことがあった。
それは、決勝戦の相手高校監督による、
「押し出しの場面のボール判定は誤審だ」
という怒りの声が公に発せられたことだ。
一生懸命、球児とともに汗を流してきた日々は、
さぞかし重みのあるものだろう。
日本の高校の頂点が目の前で手のひらから
すり抜けていったその気持ちは察するにあまりある。
しかし、怒りに任せて
「誤審だ、あれは本当は得点じゃない」
などと公にぶちまけるのでは
同じように懸命にプレーして真紅の旗を勝ち取った
佐賀北高校の球児たちがあまりにもかわいそうだ。
それに、敗退した球児たちに
「あの誤審がなければ」
などというその場に立ち止まり、乗り越えることを阻害させるような思いを
残してしまう危険がある。
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たしかに、その投球自体は、どちらの判定でもおかしくないきわどい球だ。
しかし、審判の判定は
「ボール」
だった。
でも、野球というルールではこれが事実だ。
その誤審を乗り越えてでも勝つのも、一つの実力だというのは、
きっと、だれよりも彼らがわかっていることではないのか。
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もし、これが誤審だと講義するなら、今後の高校野球のためだと
思うなら、怒りに任せてぶちまけるようなことは大人としてふさわしくない。
それで試合結果が変わるわけでもないのだ。
ただ、双方に後味の悪さが残るだけだろう。
後日、書類を提出するとか、高野連を訪れて申し入れを行うとか
そういう方法は考えられなかったのだろうか。
そして、その一方で、努力の末に負けてしまった球児たちに
「社会に出れば、このような場面はまたその人生に立ちはだかる。
そのときに、決して腐ってはいけない。
それを乗り越え、またステップアップしていくことに踏み出すのだ」
と教えることはできないのだろうか。
本当に、良い大会だっただけに、残念なことだった。
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でも、押し出し判定と、ホームランを打たれた野村投手の
さわやかな言葉に救われた気がする。
「悔いはない。審判が正しいから仕方ない」
彼の瞳の奥にははきっと、悔しさや色々な感情の中に、
未来が映っているのだろう。
(若さって、すばらしい!)
これからの高校野球も、楽しみだ。